2013年9月22日日曜日

「民主主義が一度もなかった国・日本」 宮台真司・福山哲郎 幻冬舎新書 2009年

 この本では、第一の著者・宮台真司が、当時、自民党から政権交代した民主党の政党の中枢にいる、第二の著者である政治家・福山哲郎にインタビューするというような形式で、政権交代によって日本の何が変化して何が変化しないのかというような話を展開しています。現在は既に再び自民党の政権下にあり、今となっては民主党への政権交代も一過的なものだったとも振り返ることもでき、また、政界では、いわゆる第三極の動向なども注目を集めていますが、この本が出版された時点では、民主党に対して政権政党としての期待も高かったということなのでしょう。

 話は、日本の内政から外交にまで多岐にわたり、その中でも権威主義的な「お任せ政治」の転換のことを強調しおり、民主党への政権交代がその一つのメルクマールであると述べています。そして、それを成し遂げたのは他ならぬ国民自身なのだ、と強調していました。
 しかしながらその中で、著者・宮台真司が特に強調していることは、「何もかもが変わったわけではない」と言った指摘でしょう。著者は、繰り返し述べていますが、民主党に政権が交代したからと言って、何もかもが変わったのではないと言っています。特に、日本人に特徴的な心性として、慣れ親しんだものの急な変化に抵抗しがちだ、という指摘を行っていました。このことを指して「社会的リソースの不変」という言い方をしているようです。

 ですから、巻末付近で著者らは、日本で変わったものは、いわば現実というゲームのルールが変わった、と述べています。つまり、変わるといっても、ムラ社会的な日本的な社会的リソースが不変という前提下では、リソース自体は変わらない。変わるものとは「自明性」であると言っています。そして、その自明性の変化によって新しいゲームが始まったのだ、と、ここで著者らは主張していました。

 では、その新しい自明性・すなわち別の言い方では「ルール」とは何でしょうか。事は、政治の問題だけではなく、この国において暮らしていく上でのリアリティの問題に及ぶと思われます。ですから、ここで重要なのは、日本的特質とされてきた、外面的ふるまいと肚の中の乖離の在り方に関する自明性が変わるということなのではないでしょうか。私が思うに、それは以下のようにまとめることができると思います。

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ゲームのルール1
行為、言論、主張、表現など、すべての人の行いがことごとくそれそのものであるということ、それが21世紀のゲーム的リアリティ現実の最も基本的なルールである。


 ゲームのルール2
己を知る者に、自己を自分が自分だと感じている通りに承認させた者が、この現実における勝利者である。
逆に、相手に不整合を押し付けることで他人をおとしめて相対的に自分を優位とすることもできるが、この方法ではその特定の相手にしか勝利し得ない。


 ゲームのルール3
自分を知る者に、自己を己が感じている通りの者であると承認させるには、様々な方法がある。列挙すると、

1.スポーツ、芸能など、直接自分の身体を利用してディスプレイを行うパフォーマンス系統の自己表現行為
2.文学、マンガ、アニメなどメディア作品を通して自己の信じるミームを拡散させる行為
3.絵画、彫刻など、複製不可能な作品を展示する芸術的な行為
4.自分の社会的位置付けである職業や立場などを利用して自分のあり方を示す行為
5.未成年などなら、学生などの身分を以て同様に自分のあり方を示す行為
6.電子的なサイバースペースで自己の意見、立場、画像などを掲示する行為
7.服装や所持品などで自分の趣味や嗜好を示す行為
8.音楽の演奏により、抽象的に思想、感情を表現する行為


ゲームのルール4
どのような自己表現行為であっても、その内容に自分自身の身体以外の人物像が内容として表現される場合がある。この場合は、その作者は、複数存在するかもしれない、その作中人物を自己の似姿であると主張してその作中人物の表現行為を以て自己の表現行為であると主張し得る。
また、他人の作品や作中人物を自己の似姿として用いる場合は、その作品を(その作品が複製可能か否かに関わらず)いわゆる市場で購入すれば、こうした主張も成立する。
なお、その似姿の性別が本人の性別に一致している必然性は、必ずしも、無い。
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 あと、少々余談ですが、著者・宮台真司が「言わなくても当てにできる自明性」がある場合は、それは「指摘」するより「利用」した方がいい、と述べている個所がありましたが、当の「自明性」の在り方そのものを操作する目的がある場合は、その自明性を意図的に指摘することで、「問題」を「一挙にこじれ」させて、従前の自明性自体を骨抜きにするという方法論的な戦略性もアリだと思いました。

今回はこんなところです。

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