2013年9月21日土曜日

「アクセル・ワールド」 小原正和 監督 TOKYO MX 2012年

 「月刊アニメスタイル」の第一号(「とらドラ!」特集)に載っていたインタビュー記事で、一つ、とても納得できたものがあるのです。それは、インタビュアーの編集長・小黒が「ネガティブな青春を送ってきた作家さんとか、監督さんが、作中で理想化した青春を描くような気持ち悪さがないと思っていたんですが。」と問いかけたのに対して、長井龍雪監督が、「でも、まあ、正直に言えば、大河みたいな女が、毎日やってくるとかって超理想なんですけど……ウォッホン(咳払い)。ま、青春ものですから。」と穏当な回答を返している点です。
 実際、「とらドラ!」という作品を通して見て感じた感想としては、こういう意味で世界観が「超理想」という範疇にあると思うのです。「ほどほどの問題が設定された」「中途半端な楽園」が描かれているような気がするのですね。だから視聴していて、作品の世界観が心地よい一方で、全体を通じて「これでいいのか…?」という感覚が残ってしまうのです。
 なぜそんな感覚が残ったのかよく考えてみると、やはりその理由は、作中で設定された問題の解決が、主人公達の力の及ぶ範囲に確実に収まるように描かれているから、という辺りにありそうな気がします。本来力の及ばない構造的な問題にぶつかった、という意味付けが見えないように思えるということです。だから、全編を通じて観ても、「解決可能な問題が当然解決した」という範疇を出ているようには感じられないのです。
 よって、基本的には、「けいおん!」と同様、理想化されたバーチャルな青春を体感することで、「癒し」の効果を得ることを期待できるタイプの作品と言えると思います。
 これに比べると、同じように学園物の設定を使って「世の中の問題」に若者が向かい合う、というような話を作っている「TARITARI」は、問題設定の位置づけを、もう一工夫してあるように思います。理事長を出すことで、「枠組みと戦っています」という演出を加えている点ですね。
 ただ、紗羽が、かっこよく馬を駆るシーンは、おかしいですね。あの制服のスカートで普通の鞍に乗れるわけないじゃん。まぁ、馬は紗羽になついているのでしょうが、あの恰好では、せいぜい、従順についてくる馬の手綱を握って歩いていくしかない。乗る演出にするなら、あらかじめ制服での騎乗に備えて、横乗り鞍を装着していなくてはおかしい。これに関連して言うと、「とらドラ!」の方で、タイガーが自転車に乗れない件は、元々、自転車そのものに乗れないんじゃなくて、「このロングスカートだから、この自転車(実用車)には乗れない」だとよかったと思います。
 さて、長々と「とらドラ!」があまりに楽園的だ、という話を続けてきましたが、そういう点では、この項のお題のアニメ「アクセル・ワールド」は、「デブのいじめられっ子」を主人公に据えるという事で、以前言及した「ブタ」のリアリティをアニメに持ち込もうという試みをしている点が斬新だと感じました。
 ただし、これでもイジメのフルコースを描写しているとは言い難いでしょう。イジメの描写が、あまりに形式的です。特に最大の難点は、性的暴行の描写がない点です。また、冒頭で、いじめっ子が簡単に作品世界の外部に取り去られてしまう点も非現実的なのではないでしょうか。
 もし、ハルユキがもう少し話数を費やして、加速世界の「ゲーム」が始まってからも、ネチネチと性的暴力も含めていたぶられ、黒雪姫先輩がずっとそれを横で見ていて、最後に先輩がえげつない手口でいじめっ子を陥れる、というように、もう少し尺を費やしてくれたら、もう少し納得感のある感じになっていた気はします。
 自分自身の私事について言うなら、もともと私自身のセクシャリティがおかしくなった原因は、中学時代にイジメの一環として行われた、一種の性的暴行です。その「性的暴行」の具体的内容は、「羽交い絞めにされてズボンとパンツを引きずりおろされ、教室の真ん中でクラス全員を前に萎縮したちんこを笑いものにされる」というものでした。
 これだけでも大きなトラウマですが、更にそのあともう一度、今度はトイレに行ったときにとっ捕まって、同じようなことを少人数でもう一遍やられました。あれはダメ押しになりましたね…。
 あとは、「単なる暴力」に関しては、やっぱり修学旅行の時に、広島で新幹線を降りてから宮島島内へ渡り、さらに宿にかけて、道を、びくびくしながら一日中歩き回った挙句、その夜になって、到着した宿で、廊下を歩いていたところを突然、不良部屋に引っ張り込まれて、殴る蹴るの集団袋叩きに遭ったのが印象に残っています。あの時は、「いくら用心してもやっぱり最後はこうなっちゃうのか…」と思って、なんかすごくやり切れなかったですね…。「所詮、自分は他人から見ればただのオモチャなのか」と思って悲しかったのも事実です。
 まぁ、ともかく、私の場合、
  性的暴行
 →「犯される者」という自己認識がトラウマによって強要される
 →メンタルが「少女」化
 →外見がメンタルに引きずられて不可避的に変化
 →自分の可愛さが再帰的に自分に入力された結果ナルシズムの循環が暴走
 →ますます外見の変化が加速
というような一連の過程によって、人格、というか、実存そのものがおかしくなっているのです。この事態は、「思い込みが具現化する」という現象の、一つの例示と言うことも出来るでしょう。
 私見ですが、再三言及した、私の言ういわゆる「七五三ロボット」が体の持ちようとして現れてしまう理由の、少なくとも一つは、多分、こうした種類の過去の経験の抑圧によっているのではないかと思っています。性的暴行を否認するために、「おじさん」という、典型的な「一人前の男」の外殻を着込んで、本体である「虐待された小動物」を隠蔽するわけです。
 逆に、この種の経験を、絶対的に抑圧するとまでは思い詰めていない場合には、少女化したメンタルを肯定してしまう結果、ナルシズムが循環して体の持ちよう自体が少女化してしまう。「小動物」が着ぐるみを着込んでいる点では「ロボット」と変わりはありませんが、外殻の表面に、本体である「小動物」の生体的な実感が漏出するような実装になっているのではないかと思うわけです。
 たぶん、そんな、いわば「身体偽装」のメカニズムというものが、あるように思います。私が、今、こういう酷い話を割と平気で言えてしまうのは、その頃から、取り敢えずの自分の在り方がそうした「身体偽装」であったとしても、いずれ、その先に色々な経験を積み上げて実際に素敵な人になれたなら、そんな昔の話も、きっと平気で話せるようになるのだろうな、と思っていたからなのだと思います。今は、ようやくすこし、そういう所に近づいてきたようです。でも、まだ先は長そうですけれどね…。
 今回はこんなところです。

0 件のコメント:

コメントを投稿