私はその理由を、以下のように考えます。すなわち、様々な要因から、今、世の中的に変化が期待され、雨宮処凛の「プレカリアート」などの色々な運動が吹き上がっていますが、東浩紀の「日本2.0」とは、こうしたムーヴメントが暴走すると、一体どこへ帰結するか、という、一種のシンボルなのです。要するに、「世の中圧」が要請する運動が歯止めを失って暴走すると、こういう「誇大妄想」に帰着する、という筋道を、書物の形で体現することがこの「奇妙さ」の含意なのではないでしょうか。
別の言い方をすると、「世の中圧」というような「問題」、すなわち「魔王」のキャラクター(悪の権化!)は、既に設定されていますから、これに対抗して、仮構の「勇者」のキャラ表を出した、ということです。このことによって、現在、日本社会で行われている「陣地戦」に、一つの構図を提供した、と言えるのではないでしょうか。
つまり、この「陣地戦」といった「スポーツ」が、抽象論としては「万人の内面で、個人個人において行われる相克劇」のようなものだとしても、実際にそうした意識の働きが、表立った態度や行動として表明されるにあたっては、「フィールド」や「ルール」、「チーム分け」などが必要だ、ということです。
繰り返しになりますが、既に「魔王」の意味が判明しており、その状況で「(概念として理想化された)勇者」を打ち出したということは、この「陣地戦」を実世界に実装するための一つの「基本ルール」が発表されたことを意味します。すなわち、本書「日本2.0」の出現によって、この「スポーツ」において、「誰に向かって、具体的に何を言い、どういう振舞い方をすると、どういう意思表示という意味になるのか」が、具体的に定義されたのです。文中に現れる人名(各稿の著者名を含む)は、主要PC(プレーヤーキャラクター)の早見表と考えていいでしょう。
そういう意味では、本書「日本2.0」は、世間の現状に対する、一種の総括であるとともに、一層下のレベルでのカウンターバランスの機能も同時に包含している、と言えるのではないでしょうか。すなわち、本書を読めば、今、日本で(それ以外でも?)行われている「社会ゲーム」に、具体的に参加するための作法が、大体わかるわけです。その意味で、本書「日本2.0」は、まさに現代人必読の書と言っていいのではないでしょうか。
以上が、東浩紀の「日本2.0」を読んで思ったことでした。
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