2013年9月21日土曜日

「日本2.0」 東浩紀 編 genron 2012年

 羊頭狗肉という言葉がありますが、本書、東浩紀の「日本2.0」については、これと全く逆の印象を受けました。つまり、「狗頭羊肉」です。真っ当な内容の書物に、敢えてトンチキな書名を冠する。もちろん、東浩紀編集長を始め著者らもこうした奇妙さには気づいている筈です。では、なぜ、このような誇大妄想のような書名を冠したのでしょうか?
 私はその理由を、以下のように考えます。すなわち、様々な要因から、今、世の中的に変化が期待され、雨宮処凛の「プレカリアート」などの色々な運動が吹き上がっていますが、東浩紀の「日本2.0」とは、こうしたムーヴメントが暴走すると、一体どこへ帰結するか、という、一種のシンボルなのです。要するに、「世の中圧」が要請する運動が歯止めを失って暴走すると、こういう「誇大妄想」に帰着する、という筋道を、書物の形で体現することがこの「奇妙さ」の含意なのではないでしょうか。
 別の言い方をすると、「世の中圧」というような「問題」、すなわち「魔王」のキャラクター(悪の権化!)は、既に設定されていますから、これに対抗して、仮構の「勇者」のキャラ表を出した、ということです。このことによって、現在、日本社会で行われている「陣地戦」に、一つの構図を提供した、と言えるのではないでしょうか。
 つまり、この「陣地戦」といった「スポーツ」が、抽象論としては「万人の内面で、個人個人において行われる相克劇」のようなものだとしても、実際にそうした意識の働きが、表立った態度や行動として表明されるにあたっては、「フィールド」や「ルール」、「チーム分け」などが必要だ、ということです。
 繰り返しになりますが、既に「魔王」の意味が判明しており、その状況で「(概念として理想化された)勇者」を打ち出したということは、この「陣地戦」を実世界に実装するための一つの「基本ルール」が発表されたことを意味します。すなわち、本書「日本2.0」の出現によって、この「スポーツ」において、「誰に向かって、具体的に何を言い、どういう振舞い方をすると、どういう意思表示という意味になるのか」が、具体的に定義されたのです。文中に現れる人名(各稿の著者名を含む)は、主要PC(プレーヤーキャラクター)の早見表と考えていいでしょう。
 そういう意味では、本書「日本2.0」は、世間の現状に対する、一種の総括であるとともに、一層下のレベルでのカウンターバランスの機能も同時に包含している、と言えるのではないでしょうか。すなわち、本書を読めば、今、日本で(それ以外でも?)行われている「社会ゲーム」に、具体的に参加するための作法が、大体わかるわけです。その意味で、本書「日本2.0」は、まさに現代人必読の書と言っていいのではないでしょうか。
 以上が、東浩紀の「日本2.0」を読んで思ったことでした。

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