2013年9月22日日曜日

「民主主義が一度もなかった国・日本」 宮台真司・福山哲郎 幻冬舎新書 2009年

 この本では、第一の著者・宮台真司が、当時、自民党から政権交代した民主党の政党の中枢にいる、第二の著者である政治家・福山哲郎にインタビューするというような形式で、政権交代によって日本の何が変化して何が変化しないのかというような話を展開しています。現在は既に再び自民党の政権下にあり、今となっては民主党への政権交代も一過的なものだったとも振り返ることもでき、また、政界では、いわゆる第三極の動向なども注目を集めていますが、この本が出版された時点では、民主党に対して政権政党としての期待も高かったということなのでしょう。

 話は、日本の内政から外交にまで多岐にわたり、その中でも権威主義的な「お任せ政治」の転換のことを強調しおり、民主党への政権交代がその一つのメルクマールであると述べています。そして、それを成し遂げたのは他ならぬ国民自身なのだ、と強調していました。
 しかしながらその中で、著者・宮台真司が特に強調していることは、「何もかもが変わったわけではない」と言った指摘でしょう。著者は、繰り返し述べていますが、民主党に政権が交代したからと言って、何もかもが変わったのではないと言っています。特に、日本人に特徴的な心性として、慣れ親しんだものの急な変化に抵抗しがちだ、という指摘を行っていました。このことを指して「社会的リソースの不変」という言い方をしているようです。

 ですから、巻末付近で著者らは、日本で変わったものは、いわば現実というゲームのルールが変わった、と述べています。つまり、変わるといっても、ムラ社会的な日本的な社会的リソースが不変という前提下では、リソース自体は変わらない。変わるものとは「自明性」であると言っています。そして、その自明性の変化によって新しいゲームが始まったのだ、と、ここで著者らは主張していました。

 では、その新しい自明性・すなわち別の言い方では「ルール」とは何でしょうか。事は、政治の問題だけではなく、この国において暮らしていく上でのリアリティの問題に及ぶと思われます。ですから、ここで重要なのは、日本的特質とされてきた、外面的ふるまいと肚の中の乖離の在り方に関する自明性が変わるということなのではないでしょうか。私が思うに、それは以下のようにまとめることができると思います。

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ゲームのルール1
行為、言論、主張、表現など、すべての人の行いがことごとくそれそのものであるということ、それが21世紀のゲーム的リアリティ現実の最も基本的なルールである。


 ゲームのルール2
己を知る者に、自己を自分が自分だと感じている通りに承認させた者が、この現実における勝利者である。
逆に、相手に不整合を押し付けることで他人をおとしめて相対的に自分を優位とすることもできるが、この方法ではその特定の相手にしか勝利し得ない。


 ゲームのルール3
自分を知る者に、自己を己が感じている通りの者であると承認させるには、様々な方法がある。列挙すると、

1.スポーツ、芸能など、直接自分の身体を利用してディスプレイを行うパフォーマンス系統の自己表現行為
2.文学、マンガ、アニメなどメディア作品を通して自己の信じるミームを拡散させる行為
3.絵画、彫刻など、複製不可能な作品を展示する芸術的な行為
4.自分の社会的位置付けである職業や立場などを利用して自分のあり方を示す行為
5.未成年などなら、学生などの身分を以て同様に自分のあり方を示す行為
6.電子的なサイバースペースで自己の意見、立場、画像などを掲示する行為
7.服装や所持品などで自分の趣味や嗜好を示す行為
8.音楽の演奏により、抽象的に思想、感情を表現する行為


ゲームのルール4
どのような自己表現行為であっても、その内容に自分自身の身体以外の人物像が内容として表現される場合がある。この場合は、その作者は、複数存在するかもしれない、その作中人物を自己の似姿であると主張してその作中人物の表現行為を以て自己の表現行為であると主張し得る。
また、他人の作品や作中人物を自己の似姿として用いる場合は、その作品を(その作品が複製可能か否かに関わらず)いわゆる市場で購入すれば、こうした主張も成立する。
なお、その似姿の性別が本人の性別に一致している必然性は、必ずしも、無い。
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 あと、少々余談ですが、著者・宮台真司が「言わなくても当てにできる自明性」がある場合は、それは「指摘」するより「利用」した方がいい、と述べている個所がありましたが、当の「自明性」の在り方そのものを操作する目的がある場合は、その自明性を意図的に指摘することで、「問題」を「一挙にこじれ」させて、従前の自明性自体を骨抜きにするという方法論的な戦略性もアリだと思いました。

今回はこんなところです。

2013年9月21日土曜日

「決定版 感じない男」 森岡正博 ちくま文庫 2013年

 今回は、新書「感じない男」という本の文庫化・増補として出版された「決定版 感じない男」を取り上げたいと思います。ただし、文章が余りに長すぎるので、別サイトのホームページに掲載します。下記のリンクを辿ってください。

スカート姫について(リンク)
スカート姫について(ミラーリンク)

「魔法少女まどか☆マギカ」 新房昭之 監督 TBS 2011年

 今回は、しばらく前に一世を風靡した名作アニメ、「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げます。私がこのアニメを見たのは、本放送が終了してからだいぶ経ってケーブルテレビでの再放送でした。本放送時には、雑誌で見てもあまり目立った印象がなかったので、録画しなかったのです。
 この作品では、ストーリー上、展開に工夫はこらされていますが、おおよその構図としては、五人の魔法少女たちによる「魔女」なる、この世界に厄災をもたらす存在に対しての戦いが描かれます。そして、設定的なキモとなるのが「魔女」という存在の位置づけです。「魔女」とは、「希望」によって魔法を行う魔法少女が、その願いをすべて使い果たした時に、願いを支えてきた希望が反転して絶望に転換し、無限の怨嗟や怨念を吐き出す存在になってしまったもの、と規定されているようです。
 まどかは、当初、いきなり転校してきて、早々に切れ者の才媛ぶりを示すほむらが、なぜ自分に対して執拗に魔法少女になるな、と迫るのか、全く理解できませんでした。しかし、ストーリーが進行するにしたがって、まどかとほむらの因縁が明かされていきます。かつて、ほむらは、魔女に襲われているところをまどかにすんでのところで救われたことがあったのです。しかし、その後、まどかは強力な魔女と一人で戦って死んでしまいました。
 その時までに、まどかが大好きになっていたほむらは、死んでしまったまどかを救いたい、生き返らせたいと望み、自ら時間遡行の能力を持った魔法少女となりました。そして、何度もまどかと一緒に戦って、まどかを殺した強力な魔女を倒そうと試み、そのたびに失敗して何度も時間を遡行して同じ試みを繰り返し続けていたのです。何度もループを繰り返すうちに、ほむらはどんどん強力な魔法少女になりましたが、一向に最終魔女ワルプルギスの夜が倒せません。まどかと協力しても一度も勝てませんでした。そして、実は、この第一話からのストーリーが、ほむらが繰り返してきた多数回のループのうちの最終周の物語であったことが明かされます。このループでは、ほむらはもはやまどかを魔法少女としては当てにせず、彼女を普通の人間にしておいたままで、一人でワルプルギスの夜を倒そうと試みますが、また失敗します。
 結局、この時、ほむらの危機を察知して魔法少女となったまどよって魔女は倒されましたが、まどかは引き換えに存在を失い、時空に存在する概念的な神的存在に成り果ててしまう、というラストを迎えました。
 さて、物語のあらすじは以上のようなものです。この作品は、テーマ的に言って、ありていな言葉でいうなら、「深い」とか「深遠な」とかいった形容が似合いそうな作品です。人間の善悪な観念が、きわめて魅力的なビジュアルを援用して戯画化され、ダイナミズムにあふれたストーリーが展開します。人間の邪悪・悪意の結実を表す「魔女」の斬新というにはあまりにも斬新すぎるビジュアルの数々は衝撃的ですし、これに対抗する者を「魔法少女」という、古くからアニメ作品の中では慣れ親しまれてきた存在として表すというのも、人間の善意とか正義を象徴する者は、実は日常的な、よくあるような者達である、という主張の現前と言えるでしょう。
 しかしながら、本来、どこにでもいる人間にすぎなかった魔法少女たちは、キュウベエ(インキュベーター)という宇宙から来た存在によって、魂を肉体から切り離されてしまうという、「人間」であろうとした場合には「過酷」といえる処置を施されてしまうことによってのみ「魔法」による魔女との戦闘が可能になる、という設定が設けられています。なんとなれば、肉体と精神が合一した状態では、傷つけられる痛みに耐えられないからです。この、「肉体と精神の分離」という制約によって、魔法少女たちの戦いは、次々と悲劇的な結末を迎えてしまいます。
 また、もう一つ重要なコンセプトは、人間の善意と悪意は対になって等量だけ発生するものであり、どちらかだけがどちらかを凌駕することはありえない、と定められています。この設定が、物語内における論理的なバックボーンとして敷かれています。
 この二つの前提によって、魔法少女のさやかは死亡するに至りました。
 まどかとほむらは、結局のところは、この制約をも無視してワルプルギスの夜に挑み続けましたが、結局まどかは、最後の周回でワルプルギスの夜に勝利するに当たっては、自らの「存在を失う」ことによってのみこれを達成できるにとどまり、もはや人間ではあり得ませんでした。
 しかし、鑑賞した感想として、いくつかこれらの作中で提示されている見解には異論を持たざるを得ません。
 第一に、マミの死亡のプロセスが了解不能です。まどかが現れて孤独で亡くなったマミがパワーアップするというのなら話は分かるのですが、なぜそのこと油断(?)によるが敗北・死亡に繋がってしまうかがわからない。
 第二に、さやかの死に関してですが、前提が二つとも疑問です。
 一つは、なぜ「痛みを回避する」ために「精神と肉体を分離する」必要があるのか理解できません。「痛い→行動不能」というのが共感できない。確かに、痛いのに行動すれば、行動終了後にしばらく回復が必要になりますが、それは戦闘が終わってから休憩すればいいのであって、なぜ「戦闘中にリアルタイムで痛い」ことが回避されなくてはならないのかが不明です。これはマミの場合と原理的に同じ問題ですが、痛覚にせよ気の緩みにせよ、戦闘終了後にすればいいのです。
 二つには、善悪が対生成、対消滅するという観念が共有できません。善にしろ悪にしろ、一度誰かの内部に発生したものが雪だるま式に大きくなったりすることはあるでしょうし、場合にとってはその転がり落ちてゆく過程を意図的に止めることもできるでしょう。常に振れ方が双方向に等量である必要はないと思います。
 第三に、杏子が自分のためだけに魔法を使うことを決意した理由は、父親が教会での布教を、自分の理屈を混入させたものに変質させたことで新興宗教じみたものにしてしまい、結果的に信者を失ったのが遠因でした。ただ、この場合、この父親の不当な野心が問題です。いきなり「新しい信仰」を「世を救う」ために発明するなど、一介の教会の神父には度の過ぎる目標です。こういう場合は、まずは堅実に、文字通り単なる「新興宗教」から始めるのが妥当です。その「新興宗教」で当面救える人数など当初はせいぜい数人、十数人といったところでしょうが、そういうところからだんだん拡大して目的に近づいてゆくのが筋というものであって、いかに世を憂いていたといっても、突然「世を救う」というのは、当面の目標としては過大です。
 第四に、まどかが存在を失った理由が不明です。これは第一に、まどかが自分自身の魔女化(=絶望)をキャンセルするために存在を失ってしまいましたがこの理由が不明です。絶望をキャンセルしたら満足感だけが残って終わり、というのなら話は分かるのですが、この作品の理屈には共感できない。この本筋からいうと、「すべての魔法少女の救済」は単に結果的に生じてしまったついでのことであって、まどかの意図は彼女たちの救済には向けられていない以上、因果がフィードバックする理由がない。
 唯一納得できる理屈は、最終周回でまどかに救われたほむらが、その後、作り変えられた世界で魔獣を倒し続けると決意した動機です。ですが、実のところ、そもそもまどかが存在を失う理屈自体が不明な理屈なので、ほむらが魔獣を倒し続けるという状況自体があり得ないはず。
 もちろん、こうした終わり方には、ある種の意図があってのことではあろうとは思います。すなわち、ちかく公開が予定されている劇場版第三作「叛逆の物語」においては、おそらくまどか、またはほむら、あるいはその双方によって、上述のような不自然を否定するための戦いが行われ、最終的にはまどかは単なる人間として世界に帰還し、一方、ほむらはまどかの消滅ゆえに始めた無限の戦いに終止符を打つことになるのでしょう。近く公開される映画に期待したい所です。そして結局、まどかにしても、世界に帰還してしまえば、新しくなった世界で、魔獣と戦ってゆくことになるのでしょう。

「巨神ゴーグ」 安彦良和 監督 テレビ東京 1984年

 今回は、懐かしのアニメと言ってよい作品、「巨神ゴーグ」を取り上げます。
 この作品は、「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインなどで名高い安彦良和がデザインやストーリーなどを全面的に手掛けたことで、一部のファンに根強い人気のある作品と言えるでしょう。だたし、本作は、これが極めて厄介な代物であることを言わねばならないと思います。というのは、オープニングフィルムの映像やその歌詞を始めとして、随所に見られる、表面的な健康そうで爽やかな絵面と、健全な冒険ものであるかのようなストーリーの印象とは裏腹に、非常に淫靡で陰惨な性的志向が背後に隠されていると見えるからです。
 問題なのは、ヒロインのドリス・ウェイブのコスチュームです。彼女は、物語の開始時、ニューヨークで兄のウェイブ博士を手伝っていた時には、短パンのコスチュームを着て自由闊達に振る舞っていました。その姿で空中をワイヤーアクションするようなシーンもあり、その場面は、いかにも「この下半身がきちんと閉じた格好ならば下に地面が無くても大丈夫」というメッセージを放っています。
 しかし、巨大ロボット・ゴーグと共に行く冒険の旅の舞台であるオウストラル島に渡る際に、彼ら兄妹や主人公・田神由宇ら一行は、彼らの島での冒険の案内人・「船長」の手によって用意された「制服」のようなコスチュームに着替えることになり、その結果、ドリスは一行で一人だけミニスカート姿にされてしまいます。
 しかも、彼女の「制服」は、スカート部分と、あとは頭部のサンバイザー以外は、ほぼ由宇とお揃いなのです。由宇はドリスと微妙に色の違うコスチュームで、スカートの代わりに短パンになってる点だけが異なります。また、兄のウェイブ博士も、幾分デザインが異なるものの、ほぼ共通の「制服」を纏いますし、「船長」自身も、基本的に同じデザインの服を、極端に着崩して着こなしています。そして、彼等の共通のデザインの「制服」の中で、ドリスだけがスカートなのです。
 この「スカート以外は基本的に共通」という設定が、ドリスが「スカートである」という部分こそが特に注目すべきポイントであることを指し示す上で、大きな役割を果たしています。また、一行が島で合流したメンバーの少女・サラがホットパンツ姿であることも、このドリスの「苦境」を、更に浮き彫りにする役目を増幅していると言っていいでしょう。
 ですから、そういう目で見ると、実は、冒険の舞台であるオウストラル島とは、ドリスを性的に開発するための装置だったのではないかという疑念が湧いてきます。実際、ドリスは、この、大切なところが開いてしまっているミニスカートのコスチュームで、様々な、性的な意味で「危うい」シチュエーションに置かれます。
 
 例えば、島に渡る途中、船が傾いてパンチラしながら通路を落下したり、島に渡ってからは、このスカート姿で遥かに高いゴーグの頭の上に搭乗したり、また、一行が乗って旅をする戦車・キャリアビーグルの上面ハッチから上半身を乗り出している状態が描写されたりします。(当然車内でラダーに乗っている筈の下半身は…。)しかも、このシーンでは、その状態で、落石からゴーグに守られるなど、極めで象徴的な場面が展開します。
 他にも、敵の一勢力の首領であるレイディに川べりで拷問されてその際に下着が裾から覗いたり、由宇と二人で捕まった際に両手首両足首を縛られて転がされた時に(縛られてはいない)膝を閉じていたりします。
 また、大掛かりな「大道具」的な仕掛けを伴ったシーンとしては、秘密基地内部で、敵・ガイルの襲撃に対して反撃した異星人側の攻撃で、襲撃したガイルの戦闘員が死体となって大量に流れる渓流のごとき流水に、ドリスはスカート姿で足首だけ浸かって立ち尽くしたりします。陰惨な場面の只中、踝まで覆ったブーツが水に浸かって、その上に無防備なスカートが開き、下方に向かってまるで一輪の花のように純白の輪が開いている様は、あまりにも性的なカリカチュアです。
 こうした大仰な場面設定で最も端的なシーンは、異星人基地の最深部で、広大な無重力の空洞に、由宇とドリスがはまってしまったシーンでしょう。この際、二人は、縦に長いこの重力のない広い空洞を、手を繋いで降下してゆくのですが、由宇がドリスの手を取るのを止めた途端に、ドリスは無重力空間で前方に一貫転してしまい、露わになった下着を隠そうと、丸くなってスカートの前を押さえてしまうのです。
 「スカート姿のドリスは、一人ではスカートを押さえる以外には何もできない」という影の主張が、あまりにも露骨に顕在化しているシーンと言ってよいでしょう。このシーンでは、この空間の最下部に着地したドリスは、由宇を前に、「私だって、私だって…!」などと泣き叫ぶ描写すらあるのです。

 しかも、同じ安彦氏がキャラクターデザインをした映画クラッシャージョウのヒロイン・アルフィンの場合は、コスチュームは他のメンバーと同じタイツであるにも関わらず、本人自身が根本的に極端な無能力者でしたが、対してドリスは、ニューヨークでパンツ姿での活躍などの描写も見る限りでは、本来は活発で快活な娘であり、その儚く弱々しい無能さの源泉は、もっぱら、そのあまりに性的な弱味を晒しているスカートのコスチュームに在ると言えそうです。
 そういう意味では、このアニメ「巨神ゴーグ」に於いては、ドリスを巡る扱いに関して余りに手が込んだ場面設定がなされ過ぎている、という感を抱かざるを得ません。ううん、このアニメ、実は設定全部が、ただの変質者の妄想なんじゃ…。

 今回はこんなところです。

「トンデモ本の世界」 と学会・編 宝島社文庫 1999年 (原版は、洋泉社 1995年)

 今回は、昔懐かしい本、「と学会」の「トンデモ本の世界」を取り上げます。
 さて、まず、ちょっと前提のおさらいから入りましょう。
 
 既に明らかにしたように、「最上層で権力が固着した世界」においては、社会構造内部に成り立つ力学的システムが要請する必然によって、社会最下層に於ける抑圧も固定化されます。すると当然明らかになるのは、「いじめ自殺」というものは、なんら「問題」などではなく、むしろシステムが正常に機能した結果生じた「成果」であるということです。
 すなわち、「自殺」という形で人身御供を選抜することが、そもそも最初から目的として存在するからこそ、社会システムがイジメという活動を組織しているわけです。そして、こうした機構によって生産される「自殺」なる産物の用途は、メディアによってこれを流布し、一般の娯楽に供する、ということです。まぁ、テレビの前で報道を聞きかじって憐憫の情に富んだ自分にうぬぼれてみたりする、というような形で、お茶の間に「癒し」を提供する、というような意義があるワケです。
 すると、学校における「教室」とは、こうしたスケープゴートの効率的な選別を可能にするうえで最適化された規模の、子供を囲い込む牢屋のパーティションであるということが言えます。「教室」というものがこの程度の規模であるなら、きわめて効率的にターゲットが選定されるわけです。そういう意味では、結果論とはいえ、系が自律的に生成すると、こうも最適な構造が自然発生するものか、という感嘆は、禁じ得ないところです。
 この場合、当然ですが、「人柱」として選抜されるものは「カタワ」です。あとで述べますが、こういう「スケープゴート選び」で重要なのは、その対象の「異常性」だからです。
 さて、「と学会」の活動とは、いわゆる「トンデモ」とされている、世の中で科学的な常識や自明な前提とされている世界観と明らかに齟齬をきたした主張・内容を有する著作を引き合いにだし、基本的には物笑いの種にする、というスタンスで、次々と紹介してゆく、といったもので、そういう意味では、一種の「吊し上げリンチ」という様相をショーアップ化したものという見方で捉えることができます。
 つまり、先に述べた「権力固着世界」において、このような機能を「装置学校」の水準で社会に実装した娯楽装置ということです。当時の世相から考えても、「権力」が完全に「固着」していた時代の必然として、こうした一種の「社会的装置」が発生して人気を博したことには、必然としての合理的な理由があると考えられます。
 ただし、私自身は、この種の「ショー」にたししては、確かに面白いと感じる一方で、ある種の嫌悪感を感じざるを得ませんでした。その理由は以下のようなものです。
 確かに紹介されている著作物の作者は、科学的理論や世界での共通認識から逸脱するような主張をしているのかも知れません。そういう意味では「知的カタワ」といっていいでしょう。この異常性が、彼らを断罪的・嘲笑的に取り上げることの、正当化への根拠となっているわけです。
 ただし、彼らのそういう「トンデモ」な認識枠組みが成立・固定化してしまった来歴を忖度した場合には、その「カタワな」枠組みにも、一種の内部整合的な歴史的必然が内在しているわけで、それを考慮することなく外部から断罪的・嘲笑的な評価を下すのは、「正しさ」による一方的な暴力であると思われます。そのように感じられたゆえに、「トンデモ」的娯楽、というスタンスに嫌悪感を感じてしまったのです。
 もう少し考えると、これは、一般に「きちがい」を「きちがい」と認定して断罪・排除する理屈に通じるものがあるという事が言えます。
 つまり、「正常な人」が、認識枠組みのネゴシエーション不可能なほどの自分との不連続を相手の中に認定すると、その相手を「きちがい」と断定して直ちにすべてのコミュニケーションを切断して「病院」に閉じ込めるのです。しかし、「正常な人」が「きちがい」の中に「正常性」を認定できないとしても、その「きちがい論理」独自の「経緯としての必然性」を考慮する必要は存在すると考えられますから、「切断」は不当です。
 なぜなら、「正常な人」の認識の構成要素と言えども、あらゆるパラメーターが平均値や中央値を取っているとは限らず、「きちがい」の異常な枠組みと言えども、値の極端な偏倚でしかなくて、それ以上の意味があるわけではないからです。その意味で、両者の齟齬は、相対的でしかありません。
 しかしながら、ある臨界値を超えた認識の偏倚である、とされて一方的に「正しい圏」から排除されてしまった結果「病院」に送致された「きちがい」は、もはや二度と、世界すべてとのコミュニケーションの可能性を絶たれることになります。
 すると、こうした「異常な枠組み」を「常識」と擦り合せるべく調節したり、新たな認識を加えることで枠組みを変化させる機会を絶たれることになります。「切断」は、「きちがい」を、固定化して袋小路に追い込んでしまう結果を招くのです。あるいは、「きちがい」側に、何らかの整合的に正当化できる認識が内包されていたとしても、それを「正常圏」に還流し、これを契機として活用して「正常圏」のあり方をアジャストするというようなことも出来なくなります。
 もちろん、上述した「イジメ」といったものも、「コミュニケーション遮断」による排除の一種ですから、本質的には「きちがい扱いすることで人を追い込む」というシステムの一環です。自殺してしまえばその時点で「現実(=物理的世界そのもの)」から排除されてしまいますから、「追い込み」はそれで終わりですが、この選抜過程で「自殺」にまで至らなかったターゲットの場合は、後々「きちがい」として発現するように、システムが予め被害者の内部に一種の「遅延装置」を組み込んでいる、という捉え方ができます。
 すると、この種の「予約された時限式きちがい」といった手合いは、学校の現場ではなく、卒業後に、いずれ社会で消費されることになります。というのも「きちがい」は社会的娯楽なので、イジメ被害者であれ精神病患者であれ「トンデモ」の作者であれ、共通することは、「正常な」人から見ると面白い、という事であるからです。
 そんなわけで、「きちがい」は、学校、病院、社会など、いろいろなレベルの広さの世界で広く娯楽として楽しまれてきた、という来歴が、この日本の社会には存在していると言えるでしょう。その一つの端的な表れとして、例えば「と学会」の人気というものがあり、連日続く「イジメ報道」というものがある、という観点から事態を把握することも可能だと思います。
 そして、この背後にある共通のメカニズムとして、「きちがいを娯楽として消費する」というものの考え方が横たわっているのです。
 今回は以上です。

「感じない男」 森岡正博 ちくま新書 2005年

 今回は、森岡正博の「感じない男」という本を取り上げたいと思います。
 この本は、確かに著者自身が主張する通り、従来の「客観的な」セクシャリティ論では扱われなかったような角度から、男性のフェチや性的志向の問題に切り込んでいます。その際に参照基準となるのは常に著者自身の実感である点で、過去に積み上げられてきたこうしたジャンルの著作とは一線を画しているといってよいと思います。
 さて前回までに、私がトラウマによって人格が自壊してしまうのを防止するための殆ど無自覚な戦略として、自分の身体上に「少女」を実装してしまう、という適応を行ってしまった、という話をしました。この本の内容には、こうした話題に関連する内容も含まれていて、興味深いものがあります。
 まず、ミニスカートに対するフェテシズム的執着の問題について、そのメカニズムを、著者は、自分の嗜癖を根拠に解剖していきますが、この論点には、実に共感的に納得出来るものがありました。すなわち、「隠す意思」そのものに男は惹かれている、という結論が述べられています。そして、中盤以降では、「ロリコンやフィギュア萌えオタクは、自分が『汚い』『男の体』を抜け出して、少女の体に乗り移りたいのだ」という論旨が展開されます。
 さて、既に前回までに、私は如何にして自分の身体上に「少女」を実装してしまったか、といういきさつについては、ざっと述べてきました。かいつまんで振り返ると、中学時代にイジメに伴って一種の強姦的な被害を被ったために、これが男性性の「去勢」となってメンタルが女性化してしまい、それに引きずられて外見や振る舞いを、その心性に合致させてしまった、というのが、おおよその成り行きでした。
 ゆえに、例えば私のpixivのアカウントを見れば分かるように、私の(イラストなどの)表現上に出現する「視姦される少女」とは、要するに自分のセルフイメージなのです。表現上に自分を展示しているわけです。
 著者・森岡正博は、自分が痴漢に遭った際の経験を引いて、自身が「狙われる体」であることを「耐え難いことであった」と述べています。私の場合も、電車で二度ほど痴漢に遭いましたが、その際には、嫌悪感よりは、自分のメンタル的な快感を満たされる感覚が先に立ってしまい、これらの件では、自身のメンタルが女性化してしまっていることを再確認させられました。
 
 さて、この「偽装身体」を実装するに当たっては、もちろん内部の「小動物」は、偽装を開始した高校入学の時点ではあまりにも小さすぎたため、、外皮の「偽装身体」との間には大きな空隙が出来てしまっていたわけですが、可能な限りこの「小動物」を育成することで「偽装身体」内の空隙を埋め合わせ、最終的には「偽装身体」を撤去して、外装を育成した「小動物」そのもので置換する、というような将来展望を考えていたわけです。「小動物」がそもそも「少女」のミニチュアになっているために、こうした展開が妥当だと構想したということです。
 ちなみに、私の言う「ロボット」は、「おじさん」を、偽装身体の雛型にしていると思われます。ただし、「ロボット」の戦略上の欠点は、内部の「動物」を育成しても、最終的に外装の撤去が困難だということです。「おじさん」と「ミニチュア少女」は形状が異なるために、単純に置換できないのです。
 そして、私が「おじさん」より「少女」の方が、自分の偽装身体として、よりふさわしいと感じている理由は、内面的なイメージに対する親和性が「少女」の方が高いからです。「おじさん」は違和感が大きすぎて実装できないのですね。これはやはり、「強姦被害」によって、自分の男性としての自信を破壊されているのが原因と思われます。
 ともかく、「居方」の佇まいのまとまりをよくして「人間然としたオタク」を目指すなら、「身体偽装戦略」は有効だ、という事は言えると思います。その際、「性的被害」のようなタイプのイジメといったトラウマを抱えている場合は、「偽装身体」としては、「おじさん」よりも「少女」のほうが馴染むはずだ、というのが、私が自分の経験から導いた意見です。
 そして、「偽装身体」として何を使うか決めかねたり、そもそも「身体偽装」に価値を見出さないと、キャラが荒廃して、「ハゲデブ」系統のオタクになってしまうものと思われます。その場合には、こういった「キャラ(というかキャラの不在)」に落ち着いてしまった相手に対しては、周囲はどう対応していいか扱いかねてしまう、という問題が生じると思います。オタクに関連してしばしば取り沙汰されるコミュニケーション能力の欠如の問題は、こうした枠組みから理解することもできると思います。まぁ、最初から孤立を決め込んでそもそもコミュニケーションに関心がない人の場合は、身体偽装というような問題には興味が無いかもしれませんが…。
 そんなわけで、、私は、この本の著者が「不可能な願望」として述べている「少女の体に乗り移る」という行為を、少なくとも自覚のレベルでは現に実行してしまったのです。特に私の場合、自分の顔の造作と、トルソー部分の形状は、自分で自分の体に欲情するには十分なシロモノでした。スネ毛が濃いというのは男性的特徴の残滓として残りましたが、全体のバランスからすると、この点は、私にとっては、それほど大きな痂疲とはなりませんでした。いざとなれば剃ってしまえばいいんだし、と暗黙に考えていたからですね。
 そうやって「少女の体を内側から生き」「自分で自分の体を真に愛し」た結果、生じた事態は、オナニーが「不感症」ではなくなってしまった、という結果でした。よって、著者の言う「射精後の敗北感」という感覚が、共感的には理解できません。ただ、快感の残響が徐々に薄れてゆく過程が、まどろんでいるようで気持ちがいいだけです。
 このように、概念的な意味で「少女に乗り移って」自己完結してしまっているために、少なくとも自分の内的必然としては、「身体」に関する不満というものは、オナニーといった性欲処理の問題まで含めて、特に抱えてはいません。問題が発生したのは、ナルシズムを含めたこのような完結の仕方が、男性という定義の上では完全に異常であるために、この完結している系全体を隠蔽しなくては、という強迫観念が生じたことによります。ただ、今回、ブログを書くという機会にあたって、こうした私に組み込まれている系全体を暴露してしまったため、「身体」に関しては、自覚としては、何も問題点を感じなくなりました。
 著者はまた、「男の不感症」を抑圧していると、反動作用で「権力」を追求してしまうので、「不感症」を自覚することで「やさしさ」を獲得できるはずだ、という論旨も、巻末付近で展開しています。私の場合にも、「やさしさ」を追求する一方で、「権力的なもの」にたいする執着傾向も同時に存在しており、こういう人格構造の矛盾は内包していますが、私の場合は、この問題点は、「不感症」との直接の接点は無いように感じています。
 結論から言うと、私の場合は、この分裂が生じている理由は、自尊感情がうまく機能していないためです。もちろん、この事態もまた、直接的にはイジメが原因で引き起こされたものですがら、セクシャリティの逸脱の件と、問題としては同根なのですが、私は「身体」や「性」の問題は「自分の体」で回収してしまったために、自尊感情の不全・劣等感といったものだけが、単独で残存してしまったのです。
 この問題を辛うじて埋め合わせていたのは、小学校卒業時に、親が私を受験上の理由から強制的に他地区の中学に入学させようとして引っ越した際に、同じクラブ(まんがクラブ)に所属していた友人が私が居なくなると知って泣き出した、という経験でした。この経験が、私でも、一度は他人に心底好かれたことがある、という自信を繋ぎとめる根拠として大きな働きをしていました。
 最近不安定になっている理由の一つが、妄想によって、この経験が親の根回しによって行われた「演出」だったのではないか、と疑い出してしまった、という事なのですが…。まぁ、率直に言って、あんまりそれは信じたくないなぁ、というのが本音ですが…。
 そういう意味では、今後、感情的な安定を確立するためにも、あまり孤立してばかりもいられないのでしょう。誰かに「素」で好かれるようになってゆく必要が、あるのだと思います。
 今回は、こんなところです。

「アクセル・ワールド」 小原正和 監督 TOKYO MX 2012年

 「月刊アニメスタイル」の第一号(「とらドラ!」特集)に載っていたインタビュー記事で、一つ、とても納得できたものがあるのです。それは、インタビュアーの編集長・小黒が「ネガティブな青春を送ってきた作家さんとか、監督さんが、作中で理想化した青春を描くような気持ち悪さがないと思っていたんですが。」と問いかけたのに対して、長井龍雪監督が、「でも、まあ、正直に言えば、大河みたいな女が、毎日やってくるとかって超理想なんですけど……ウォッホン(咳払い)。ま、青春ものですから。」と穏当な回答を返している点です。
 実際、「とらドラ!」という作品を通して見て感じた感想としては、こういう意味で世界観が「超理想」という範疇にあると思うのです。「ほどほどの問題が設定された」「中途半端な楽園」が描かれているような気がするのですね。だから視聴していて、作品の世界観が心地よい一方で、全体を通じて「これでいいのか…?」という感覚が残ってしまうのです。
 なぜそんな感覚が残ったのかよく考えてみると、やはりその理由は、作中で設定された問題の解決が、主人公達の力の及ぶ範囲に確実に収まるように描かれているから、という辺りにありそうな気がします。本来力の及ばない構造的な問題にぶつかった、という意味付けが見えないように思えるということです。だから、全編を通じて観ても、「解決可能な問題が当然解決した」という範疇を出ているようには感じられないのです。
 よって、基本的には、「けいおん!」と同様、理想化されたバーチャルな青春を体感することで、「癒し」の効果を得ることを期待できるタイプの作品と言えると思います。
 これに比べると、同じように学園物の設定を使って「世の中の問題」に若者が向かい合う、というような話を作っている「TARITARI」は、問題設定の位置づけを、もう一工夫してあるように思います。理事長を出すことで、「枠組みと戦っています」という演出を加えている点ですね。
 ただ、紗羽が、かっこよく馬を駆るシーンは、おかしいですね。あの制服のスカートで普通の鞍に乗れるわけないじゃん。まぁ、馬は紗羽になついているのでしょうが、あの恰好では、せいぜい、従順についてくる馬の手綱を握って歩いていくしかない。乗る演出にするなら、あらかじめ制服での騎乗に備えて、横乗り鞍を装着していなくてはおかしい。これに関連して言うと、「とらドラ!」の方で、タイガーが自転車に乗れない件は、元々、自転車そのものに乗れないんじゃなくて、「このロングスカートだから、この自転車(実用車)には乗れない」だとよかったと思います。
 さて、長々と「とらドラ!」があまりに楽園的だ、という話を続けてきましたが、そういう点では、この項のお題のアニメ「アクセル・ワールド」は、「デブのいじめられっ子」を主人公に据えるという事で、以前言及した「ブタ」のリアリティをアニメに持ち込もうという試みをしている点が斬新だと感じました。
 ただし、これでもイジメのフルコースを描写しているとは言い難いでしょう。イジメの描写が、あまりに形式的です。特に最大の難点は、性的暴行の描写がない点です。また、冒頭で、いじめっ子が簡単に作品世界の外部に取り去られてしまう点も非現実的なのではないでしょうか。
 もし、ハルユキがもう少し話数を費やして、加速世界の「ゲーム」が始まってからも、ネチネチと性的暴力も含めていたぶられ、黒雪姫先輩がずっとそれを横で見ていて、最後に先輩がえげつない手口でいじめっ子を陥れる、というように、もう少し尺を費やしてくれたら、もう少し納得感のある感じになっていた気はします。
 自分自身の私事について言うなら、もともと私自身のセクシャリティがおかしくなった原因は、中学時代にイジメの一環として行われた、一種の性的暴行です。その「性的暴行」の具体的内容は、「羽交い絞めにされてズボンとパンツを引きずりおろされ、教室の真ん中でクラス全員を前に萎縮したちんこを笑いものにされる」というものでした。
 これだけでも大きなトラウマですが、更にそのあともう一度、今度はトイレに行ったときにとっ捕まって、同じようなことを少人数でもう一遍やられました。あれはダメ押しになりましたね…。
 あとは、「単なる暴力」に関しては、やっぱり修学旅行の時に、広島で新幹線を降りてから宮島島内へ渡り、さらに宿にかけて、道を、びくびくしながら一日中歩き回った挙句、その夜になって、到着した宿で、廊下を歩いていたところを突然、不良部屋に引っ張り込まれて、殴る蹴るの集団袋叩きに遭ったのが印象に残っています。あの時は、「いくら用心してもやっぱり最後はこうなっちゃうのか…」と思って、なんかすごくやり切れなかったですね…。「所詮、自分は他人から見ればただのオモチャなのか」と思って悲しかったのも事実です。
 まぁ、ともかく、私の場合、
  性的暴行
 →「犯される者」という自己認識がトラウマによって強要される
 →メンタルが「少女」化
 →外見がメンタルに引きずられて不可避的に変化
 →自分の可愛さが再帰的に自分に入力された結果ナルシズムの循環が暴走
 →ますます外見の変化が加速
というような一連の過程によって、人格、というか、実存そのものがおかしくなっているのです。この事態は、「思い込みが具現化する」という現象の、一つの例示と言うことも出来るでしょう。
 私見ですが、再三言及した、私の言ういわゆる「七五三ロボット」が体の持ちようとして現れてしまう理由の、少なくとも一つは、多分、こうした種類の過去の経験の抑圧によっているのではないかと思っています。性的暴行を否認するために、「おじさん」という、典型的な「一人前の男」の外殻を着込んで、本体である「虐待された小動物」を隠蔽するわけです。
 逆に、この種の経験を、絶対的に抑圧するとまでは思い詰めていない場合には、少女化したメンタルを肯定してしまう結果、ナルシズムが循環して体の持ちよう自体が少女化してしまう。「小動物」が着ぐるみを着込んでいる点では「ロボット」と変わりはありませんが、外殻の表面に、本体である「小動物」の生体的な実感が漏出するような実装になっているのではないかと思うわけです。
 たぶん、そんな、いわば「身体偽装」のメカニズムというものが、あるように思います。私が、今、こういう酷い話を割と平気で言えてしまうのは、その頃から、取り敢えずの自分の在り方がそうした「身体偽装」であったとしても、いずれ、その先に色々な経験を積み上げて実際に素敵な人になれたなら、そんな昔の話も、きっと平気で話せるようになるのだろうな、と思っていたからなのだと思います。今は、ようやくすこし、そういう所に近づいてきたようです。でも、まだ先は長そうですけれどね…。
 今回はこんなところです。

「いつまでもデブと思うなよ」 岡田斗志夫 著 新潮新書 2007年

 この本は、著者・岡田斗司夫自身の「ダイエット」による急激な痩身について書かれたものであることは周知ですが、実際に読んでみて、ダイエットの実行にまつわる方法論の論理化・つまり本の主要部分に関しては、「ずいぶんいらぬ理屈をこねてるなー」という感想しか持てなかったと言わざるを得ません。
 ただし、巻末付近で出てくる「欲望型」と「欲求型」という類型化は、すんなりと納得できる論旨でした。つまり、「頭の欲望に忠実なタイプ」VS「体の欲求に忠実なタイプ」という二分法を行って、前者が太りやすいタイプ、後者が痩せやすいタイプ、という対比をしています。この切り分けには納得できました。
 私自身の来歴を振り返れば、この区分に従えば、明らかに「欲求型」です。というのも、前回述べた通り、私は中学時代には、それこそ「アクセル・ワールド」の「ハルユキ」のような外見の(いや、実際には、あれほど膨れ上がった自然体でもないもっと萎縮したチビデブの)イジメられっ子だったワケですが、中学卒業後に急激に痩せて外見が変わってしまい、いわば「身体」に「少女を実装」してしまったという経緯があるのです。そして、今、この本を読みながら当時の事を思い出すと、このプロセスは、どうやら環境からのストレスによる圧迫が無くなった結果、抑圧されていた「体の欲求」が具現化してしまうことによって生じた、必然的な不可避な過程であったように思われるのです。
 このメンタルの身体化の過程が起こったのは、中学卒業後すぐ、高校一年生の頃でした。この時期には、進学したことで苛烈なイジメもなくなり、それまでに比べれば、平穏な日々を過ごしていました。一学期の頃は、中学時代にコミュニケーション能力を完全に破壊されていたために孤立もしていたのですが、その後、転校生が仲良くしてくれるなど、次第に周囲も好くしてくれるようになってきたのです。周りも、見るからに事情が分かったので、その辺は配慮してくれたものと思われます。例えば、夏の合宿のために班分けした際に、入る班がなくて教室で孤立していたら、声を掛けてくれる人達もいましたしね。まぁ、そうやって過大なストレスが抜けてきたわけです。
 すると、急激に痩せはじめ、その結果、自分の「かわいい」を発見してしまい、ナルシズムがループ開始という結果に相成りました。
 この際、ナルシズムの循環の暴走に一役買ったツールが、写真でした。以前から鉄道の撮影には入れ込んでいたのですが(と言っても、中学生程度ですから、駅構内でパカパカ撮る程度のことではありますが。何度か上野駅にダイヤ改正前後に通い詰めたりしていました。)、一眼レフを買ってもらっていたこともあって、他に適当な部活もなかったため、高校では写真部に入ってしまったわけです。ここで、鉄道以外にも写真の世界というものがあるという事を垣間見たり、やった事のなかった現像とか紙焼きとかの技術に触れることになりました。(モノクロですが。というか、このころ、高校生の部活程度なら、カラーなんて普通有りませんでしたし。)
 そして、ナルシズムのループという事では、初めは単に「鏡でうっとり」ぐらいの即物的な事だったのですが、上のような経緯を経て、すぐに「自分撮り」に狂い始めてしまいました。つまり、殆ど際限なく自分を撮影しまくるわけです。傍目には、明らかに気持ち悪いレベルの自己陶酔と言っていいでしょう。
 まぁ、そうやって「体の欲求」である「少女化」が具現化することで「動物化(生き物化?)」が進んだわけですが、そうは言っても元々がカタワ程度の者なので、現在から思い返せば、その時期にも相当ひどいレベルの身体的な挙動不審があり、それは中学以降も相変わらず残存しています。
 「写真写り」という、一種の特殊な状況に対して特異的に適応することによってメンタルの身体化が進行したことから、静止画の状態で一瞬、身体の持ちようが「見れる絵」になるという、一種、悪い意味でピーキーなだけの適応が生じて現在に至っているわけです。その結果、このフェイスブックのプロフィール写真のような、「一見マトモそう」というような自影写真が生じてしまう結果になります。ただし、実際には本人はもっとヘンで、写真のファインダー無しに自由に遊離状態で行動していると、たちまち挙動がオカシクなるという…。
 まぁ、しかし、単なる「写真写り」程度の事であっても、結構「身体感覚」みたいなモノについて満たされるという自覚的な現象はあるワケで、そのことが、人格が自壊してしまうことに対して歯止めになっています。そういう意味では、カタワなりの部分的適応とは言えども、これはこれで悪くない、と感じているのです。
 そんなわけなので、このナルシズムの循環暴走によるトラウマの補填という過程を、引いた視点から冷静に見ると単に気色悪いだけなのですが、ただし、だからこそ、それによって私が得たものも大きかったと言っていいのです。
 先に述べたような、私の経験したようなレベルのイジメを通過した子供は、往々にして、「世界なんか滅んじゃえ」とか、「誰でも殺す」という方向に欲求不満の矛先が向かってしまいがちな筈なのですが(そうやって巷にトンチキな事件が繰り返し起こる)、私の場合、突然、「誰でもだいすき」になってしまったわけです。敵でも、嫌な奴でも、「その人がこの世に居ること」自体は、例外なく「だいすき」なのです。当然、世界も、前提として、肯定すべきもの以外の何物でもない。過剰な自己愛に引きずられて、ルサンチマンが裏返ってしまったのです。明らかに理屈の流路がオカシイです。
 まぁ、こういう意味では、そのイカレ方や、変な過度の愛まで含めで、やはり、「ステキ」という話になると思うんですよね、私の場合。単純に「ステキ」と言った場合とは、意味が違言うんですけど。
 今回はこんなところです。本の感想というより、「自分語り」が中心になってしまいましたが…。

「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」 東浩紀 著 講談社現代新書 2001年

 前回は、東浩紀の「理屈」について、「トンチキな屁理屈」と断言してしまったのはいいのですが、その理由を全く示しませんでした。
 これはちょっと卑怯で無責任な感じなので、今回は、彼・東浩紀の代表的著作「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」を取り上げて、なぜその「理屈」が「屁理屈」なのかを具体的に説明したいと思います。
 この本においては、宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」において、社会構造の力学的モデルを正しく記述したにもかかわらず、時代固有の例外的事態であったはずの「権力の固着」を自明視してしまった際と、同じ種類の錯誤が見て取れます。つまり、執筆の時点で時間が永久に停止したままだ、という前提を、この二冊は共有しているのです。
 結果的に、東浩紀は、「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作る」という自らの志を裏切るような結論に陥っています。
 こうなってしまった理由としては、理論を構築する出発点として、状況を単に観察することよりも、先行するポストモダン理論の読み替えに依拠してしまった部分が大きいと思うのです。さらに、「歴史が進歩する」という西欧由来の誤理論を典拠にしてしまったことも、もう一つの理由でしょう。多分、「歴史の進歩」は、日本では、弥生時代あたりでもう終わっていて、あとは単にテクノロジーのレベルに規定される「歴史」の拘束条件が変動しているだけなのです。「歴史」自体は何ら進歩していません。
 東浩紀は、「『ポストモダン』には『表層』しか存在しない」と規定するらしい「リゾーム」理論に替わって、「データベースモデル」を提示したところまではいいのですが、「データベースモデル」を「在来の『伝承される文化(=大きな物語)』と対置するという構図が既におかしい。実は、「大きな物語」自体が一つのデータベースに過ぎない筈です。ただ、「伝承される文化」は、世代を跨いで継承されてきた関係上、整合性に関するメンテナンスが継時的に永く続いてきた経緯があり、その為、単一の「物語」であるかのように見えるところまで無秩序な散乱が回収されて構造的な形に収縮しているだけでしょう。
 一方で、「オタク文化」もまた当然「データベース」ですが、およそ「文化」である以上、「データベース」であるのは当然の事です。なぜ「文化」が「データベース」以外のもので有り得ないかと言えば、言葉を介さない直接の共感というものが存在しない以上、「万人がダイレクトに共有する単一の物語」という観念が妄想だから(少なくとも近似値でしかないから)です。「オタク文化」が混乱しているように見えるのは、メンテナンスが行われてきた経緯が、まだ短い持続時間しか持ち得ていないのが原因でしょう。
 その際、東浩紀の持ち出す概念「動物化」とは、生成しつつある「オタク文化」の内部での「オタク」の行動様式を記述する部分的に妥当な理論に過ぎず、これが「世界全体」を覆い尽くすわけではないのです。よく考えると「子供」の行動原理が「動物」だというのは、単なる同語反復です。
 なおまた、彼が言う「シニシズム=スノビズム」とは、オタク文化の「生成」が十分な程度に達してきたことから、来るべき「世界へのランディング」に伴う「暴力時代」を予見して、「オタク」たちが怯えてしまったのでしょう。その結果、「ここで時間を止めたい」というような、反動的な主張が発生してしまったのです。
 ただ、最近のアニメを見ていると、「リトルバスターズ!」や「サイコパス」は、この「ランディング」に関して、盛んに著名な文学作品の名文を引用するなどして、いかにも「機が熟した」、と言いたげです。すると、現に起こりつつあり、今後しばらく続く事態とは、「オタク文化」が「(伝承される)世界」に対して侵攻し、「世界」側が迎撃する、というコンフリクションという事になるでしょう。
 さて、すると、宮台真司の言う「島宇宙化」という概念の意味も明らかになってきます。
 「動物化するポストモダン」では、宮台真司の理論も参照しながら、若者集団を「新人類」と「オタク」という形に二分してモデル化していますが、要するに前者は迎撃側に与する者(コバンザメ)、後者は侵攻側に与する者(ブタ)であるというわけです。80年代には、最上層の権力の固着に呼応する形で、両者の間には具体的な戦端は開かれず、永く「冷戦」が維持されていたわけです。
 そういう意味では、「終わりなき日常を生きろ」は迎撃側の「聖典」、「動物化するポストモダン」は侵攻側の「聖典」、と言ってもいいかもしれません。そう考えると、「終わりなき日常を生きろ」が「完全自殺マニュアル」(鶴見済)に必要以上にツラく当たっている理由も理解できます。「完全自殺マニュアル」は、ブタが、「戦端を開く糸口がない」と言って七転八倒している書物だからです。
 もちろん、別にこれらの書物の出現まで、こういう概念が無意識・無自覚にでも存在していなかった、と言っているのではなく、そういう想念を明示的な「条文」に書き下したのが彼らだった、と言っているのです。
 ちなみに、今の日本では、社会には既に、その第一線には、本来の「生き物」である「サメ」は殆ど残っておらず、大半の社会的現場では、「コバンザメ」が、上が古いという分厚い逆地層を形成しており、それだけのものになってしまっています。そういう意味でも、「生き物」である「ブタ」が登場する機運は高まっていたのではないかと思います。
 さて、この「コバンザメ」と「ブタ」の区別は、以下のようにして生じます。
 すなわち、「制度学校(=現実の学校制度)」に在学しているうちに、個人の「生成」の問題としてランディングまで到達した人間は「迎撃側」になり、そこまでいかずに「世界」に放り出されてしまった人間は、「侵攻側」として振る舞わざるを得ないのです。そのため、「侵攻側」の人間には、「制度学校」からの「進学先」としての、仮想的な「装置学校」(例えばコミケのような場)が必要になります。
 そして、基本的には「侵攻側」の資質を持っているにもかかわらず、「チート」を行って「チンチクリンの七五三オトナ」へと「インチキあがり」してしまうと、「迎撃側」の「大人の世界」に入り込むことができますが、彼ら「七五三ロボット」の資質を見破っている「侵攻側」の人間から叩かれる結果となります。要するに、「裏切り者」呼ばわりが免れない、ということです。
 具体的には、唐沢俊一・岡田斗司夫などの著名な論者はこれに該当するでしょう。彼らに対しては、「現実」における「仲間」であるはずの「迎撃側」の「大人」たちも、その正体は見破っていますから、いつまでたっても珍獣扱いするわけです。「けっ、コザカシイだけのガキが!」と、そういう見方になってしまうのです。
 あ、でも、言い添えておくと、岡田斗司夫の「オタク浮世絵論」は、すべての出発点になっているという意味で、歴史的な偉業ですが…。あと、岡田斗司夫の「オタキングダム」とその頓挫とは、「業界」を舞台に一人で「装置学校」を捏造しようとしたものの、その場所は「迎撃側」の領土であった以上、当然失敗した、という顛末なわけです。
 一方、唐沢俊一のいいところは、「俺、コザカシイだけのガキだよーん。けけけけけ。ムカツクだろ?」という態度に殆ど意図的に徹しているところですね。
 ちなみに、あとは知っている範囲では、大月隆寛は岡田斗司夫と同じタイプの典型的な「七五三ブタロボット」、山形浩生はギリギリ滑り込みセーフでランディングが間に合った最下層のコバンザメであると思われます。
 この辺を勘案すると、山形浩生が、別冊宝島「自殺したい人々」掲載の「『たかる』社会に『たかる』人びと」中で、「だめ人間」に対して「自殺したい? うん、いいだろう。きみたちはもう、社会に何も貢献しないと決めてるんだし、邪魔しないよ。」「『かわいそうだねぇ』と言う以上のことは(いやそれすら)誰もしなくなるだろう。」と言っている理由も判り易くなります。ブタは迎撃すべき敵ですからねぇ。
 ただ、山形浩生はコバンザメと言っても、所詮は生き物としては出来損ない程度の者であり、かろうじて最下層にヘバリ付いているだけなので、「ぼくだってフリーソフトの人のはしくれで、しかも共産主義者で自由主義者なので」とか「お葬式くらいは最後のサービスで出してあげるかな。」などと、思わず口が滑って人間味溢れる事を書いてしまうワケです。
 だから、「新教養主義宣言」の末尾にある、「確かにぼくは、橋本治にいろんなこと教わっている。ありがとう。」という言葉には、二つの意味があるものと考えられます。
 第一には、橋本治の、自分にはない生き物としての圧倒的な「まともさ」に対する恐怖感の表明。第二は、橋本治を引き合いに出すことで、虎の威を借るキツネ的に、自分がさも生き物として上位の存在であるかのように詐称したい、という欺瞞の顕示です。「新教養主義宣言」を通じて見られる山形浩生の、チンチクリン性の反動として生起している極端な虚勢は見るからに痛々しいものですが、この巻末にチョロッと現れた馬鹿正直さは、読んでいて、とても微笑ましく、非常にいとしい感じがします。
 さて、東浩紀は、その後、「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」において、上で指摘した欠陥に対して、だいぶ自覚的になってきていますが、まだ不十分な点もあります。
 一つは、「自然主義リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」を同格のものとして対置しているモデルです。、「伝承」と「生成」の関係を考えると、これはおかしい。「自然主義リアリズム」が「伝承される文化」にランディングした過去の経緯について振り返っている一方で、「自然主義リアリズム」と現時点での「伝承される文化」を同一視するような記述があります。実際には、「自然主義リアリズム」は、一サイクル前に「伝承される文化」にランディングした「(明治初期当時の)若者文化」であり、「伝承される文化」にとっては、あくまでも部分集合であって、全体ではありません。
 それから、「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」の区分は、原理的に無効です。
 例えば、「魔法少女まどか☆マギカ」の第十話を二回見たからと言って、「この操作でループの回数が二倍になった」という言い分は成り立つでしょうか?
 東浩紀自身、「アニメやマンガのような小説」と「ゲームのような小説」の峻別は、「成立しない」と言っていますが、これは「小説」に限ったことではなく、そもそも「アニメやまんが」と「ゲーム」の峻別自体が無意味なのです。なぜなら、どちらにせよ「作品」は「テキスト」であり、ある種の「言葉」に過ぎません。どこを何回リピートして再生したとかは、実質的な想念の伝達機能には関係ないのです。
 総じて、東浩紀の議論は、やはり、動機の部分に問題があると思います。「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作る」と言っておきながら、特に「動ポモ」は、「動物化理論」が内部で整合性を保っている、これが自己無矛盾な公理系である、ということを根拠に、蔑視されてきた「オタク」の正当性を、反動的に言い募るようなバイアスがかかっています。
 「『オタク』が矮小化されて語られている(きた)」という認識には同感ですが、それを覆したいなら、「(生成しつつある)オタク」の「内部」を無矛盾に記述する理論を立てて、その整合性をいくら主張しても無意味でしょう。その外部に別の公理系があることは、原理的に妨げられませんから、こういう主張をしても無効です。
 そうではなくて、「オタク文化」という、新興の「想念分節化コード」をツールとして用いた場合に、「オタク」が人間の想念をかなりのカバー率で記述し得るような独自の「言語体系」として、現時点で、もはや成り立っている、という例示を積み重ねた方が有効ではないでしょうか?
 もちろん、この作業で何かが論理的に「証明」されるわけではありませんが、実質的な状況証拠を積み上げる、という意義があるはずです。
 え? 言いたい放題言っている私は何者か、って?
 私はもちろん、典型的な「侵攻する者」「ブタ」の一人です。ただそれだけの者ですよ。
 以上、東浩紀の「動物化するポストモダン」を読んで考えたことを思うままに書き綴ってみました。

「けいおん!」「けいおん!!」 山田尚子 監督 TBS 2009年・2010年/かきふらい 著 芳文社 2008~2012年

 今回は、テレビアニメ「けいおん!」「けいおん!!」を題材に少し書いてみようと思います。
 さて、まず最初に、異メディアにおける同一タイトルの扱いという問題に少し言及しておきましょう。本稿で「けいおん!」「けいおん!!」という時には、テレビアニメのみならず、原作のコミックも指し示す対象に含まれます。ここで問題のなるのは、こういった、「いわゆるメディアミックスによる展開を、個々の作品ごとに、『異なる作品』として厳密に峻別すべきか?」、という論点です。私は、このような場合には、異メディアの個々の作品を、個別に別個の作品として扱うよりも、それら全体を、ある程度纏まりを持ったコンテンツの複合体といった概念で捉えた方が、今現在のマンガ・アニメ・ゲーム等の作品を取り巻く実状に即しているのではないかと考えます。
 しかしながら、特に高年齢層のマニアなどを中心に、こうした異なるメディアの作品は、厳密に切り分けて別個に扱うべきだという立場は、かなり強固に存在しようかとは思います。プロの評論家の間にも、こういう「節度」に対する自覚は少なからず存在するようで、例えば、一例を挙げれば、夏目房之介は、新書「マンガと『戦争』」(講談社現代新書 1997年)の中で、「『新世紀エヴァンゲリオン』について」という項目の冒頭で、「本当いうと、この作品について触れる気はなかった。もともとテレビアニメ作品で、マンガの単行本はテレビアニメの話をなぞりながら、執筆現在四巻までしか出ていない。そこでは話は、まだほんの少ししか進んでいない。が、この作品には現在のマンガの『戦争』イメージと、侵食された身体のイメージがよくあらわれている。」などと述べており、懸命に「マンガ」と「テレビアニメ」を比較することの「不当性」を回避するためのエクスキューズを設定しようとしているかのようにも見えます。
 しかし私は、こうした異メディア作品間の比較を、単に「ナンセンス」として棄却するという立場は取らないのです。無論、メディアが異なる以上、直接の比較は出来ませんが、手続き論的に一定の前提を置けば、比較可能であるという立脚点で話を進めたいと思います。こういう場合には、無理に切り分けることで、かえって話の見通しを悪くするのではないかと思うのです。
 では、ここで言う「一定の前提」とは何かというと、一般に作品の論評や評価という場合に、そうした言説はどのような構造になっているだろうかという部分に留意したいのです。ここで、私の立場として、「作品を評価する」、という場合、そういう言説は、主に二つのレイヤーから成る、という考えを置きます。
 一つ目のレイヤーは、作品が表現している「概念」・「気分」・「美学」・「意見」・「思想」…など、内容的な側面に関する見方です。「表現したいもの」「テーマ」などと呼ぶことも出来るかも知れません。
 二つ目のレイヤーは、そうした「内容」を、どうやって形にするかという、「実装」としての側面、また、その達成度に関する評価です。ウェルメイドであるかどうかという尺度とも言えるかも知れません。この意味での一つの立場としては、判りやすく説得力のある絵や文章・映像といった描写に価値を見出す考え方があり得ます。もちろん、解りやすいことは唯一の価値ではなく、わざと難解にしたり、読解にブレの生じる余地を残したりして、その読み解きそのものをゲームとして楽しませたり、複数の「内容」が読解如何によって出現したりするような仕組みを予め作っておく、といった戦略性もあり得ます。しかし、ひとつの尺度としては、判りやすさや説得力、整合性といったものを肯定的に観るのは、評価ということを行う上で、有り得るモノの見方ではあります。
 そして、ここで言う「手続き論的」な「一定の前提」とは、一つ目のレイヤーは直接比較可能だが、二つ目のレイヤーは、個々のメディアに即した読み替え・変換を行わなければ比較不可能だ、という、一種自明な前提です。
 ちなみに、本稿では、「けいおん!」のほかに、これと対極的なポジショニングを占めているマンガ作品の一例として、山田玲司の「アガペイズ」(小学館1998~2000年)にも多少言及しますが、この二作品は、共に、上述の「実装」という側面では高いレベルにあるということは言えると思います。(もっとも、両者共に絵柄には、それぞれ難点と表裏一体不可分のような特徴(個性)がありますが…。かきふらい の原作コミックでは、立体感に乏しい切り絵のような描写は特徴的ですし、一方、山田玲司は、ディテールの潰れた、ごちゃごちゃした描写をする描画上の癖があるようです…。)
 さて、本題ですが、確かアニメの山田尚子監督本人がどこかの雑誌のインタビューで語っていたはずなのですが、それによれば、「けいおん!」「けいおん!!」の眼目の一つは、「主人公たちの『世界の狭さ』」にあるとのことでした。この言い分の言わんとする意味は、作中で、物語は、いわゆる身の回り半径1メートルとか3メートルとか、そういう「日常」の範囲で展開するのである、という事だと思われます。
 このことを言い換えれば、「『大きな共同幻想』とか、(もっと言うなら)『誇大妄想』から自由である」という見方も可能であろうと思います。つまり、大きな「社会(=『誇大妄想』)」とは関係ないところでストーリーが展開する、という特徴があるということです。これは、先行するマンガ作品に例を探せば、かつて、ゆうきまさみ の「究極超人あ~る」(小学館)が採用した手管であると言えます。この意味で、私は、「けいおん!」とは、世の中が一周して螺旋の一周先の同じ位相に達した結果、「あ~る」が帰ってきたモノである、という風に捉えています。この意味で、かつて「あ~る」楽しんだ者である私にとって、「けいおん!」「けいおん!!」は嬉しい作品でした。勿論、男女のキャラクターが居た「あ~る」に対して、「けいおん!」のキャラクターは女の子ばかりである、などと意匠は異なりますが、これは単なる表層部分の「仕上げ」というか、「ラッピング」の問題である、と私は見ています。
 こうした「けいおん!」的な「等身大の」作劇の対極にあるのが、山田玲司 的な世界観であるとよいでしょう。こちらでは、ある種の「成長観」に依拠する世界解釈が作品内で貫徹しています。今は、その一例として「アガペイズ」を参考にしますが、ここには、独特の強固な「若者観」といったものが見て取れます。すなわち、「若者」が「成長」=「社会化」=「社会への全面的コミット」といった強迫観念に取り憑かれていると言っていいでしょう。そこでは主人公達「若者」は、いまだ、まともに社会に承認されていない一方で、影にヒナタに「社会」へのコミットを通じて「一人前」になることを強要されている存在として描かれており、この結果、一種の矛盾した立場へと切迫したニュアンスで追い詰められており、その結果、そのメンタルはコンプレックスの塊のようなものになっています。
 一方で、「けいおん!」の登場人物は、全くそのようには追い詰められておらず、その結果、抑圧もメンタルの歪みといったものも、存在しません。ここで興味深いのは、「けいおん!」の主人公達は、追い詰められていないにもかかわらず、ある種のモチベーションを持っている点です。そこで、私の意見は、「『けいおん!』的なものとは、『自身の【外部】に由来する既成の社会的な概念にコミットしなかった場合に、その世界ではどのような物語が導かれるのか』、という思考実験なのではないか?」、という見解です。この思考実験が示す結論は、「『抑圧』は『物語』発生の必要条件ではない」、というテーゼではないでしょうか?
 ここで、「社会」を「誇大妄想」である、と断じてしまいましたが、この言い分は、上で「共同幻想とか、(もっと言うなら)『誇大妄想』」と述べたように、「社会」の存在を共通認識たらしめる「認識」がそもそも「共同幻想」であるからには、社会自体が、一種の「仮構(=『誇大妄想』)」ある、という主張です。ゆえに「現実」とは一種の「誇大妄想」であり、「現実」が時系列に沿って展開したものである「歴史」もまた「誇大妄想」の系譜的展開です。ここで、「文化」とは、ある価値体系が継時的に受け継がれることですから、「文化」もまた「誇大妄想」の継承であり、こういった「誇大妄想」の一つの表れ方に他ならない、という事になります。
 ここで、巷間「大人になる」といった言い方が、何か「問題」のように取り沙汰される理由は、上述の「現実=歴史=誇大妄想」という、人間に固有の事情に起因するのではないかという観点に着目したいのです。なぜなら、「大人」の「現実」とは無関係な場所で成長してきた「若者」にとっては、「社会」の「現実」とは、外来的に上からやってくるものだからです。
 もちろん重要なのは、「文化」を単に「上」から一方的にやって来る「世代を跨いで伝承される誇大妄想」とだけ捉えたのでは、物事の半分しか見ていないという点です。「文化」には、もう一つの側面があると考えられます。すなわち、人が子供から若者へと育っていく過程で見聞きした物事を、自ずと体得して再生産する結果生じる、「子供社会内部で自発的に生成する文化」です。先に述べたような、「抑圧」抜きでも自発的に「生成」する類の「物語」としての「文化」です。
 このように、「若者」には「社会」はなくても固有の「物語」は既に存在し、一方で、「社会」には、「継時的に受け継がれる」「文化」が、(若者の視点からは)既にア・プリオリに存在してる以上、両者が衝突する地点では、何らかの軋轢が生じます。こういう意味では、実は「適応」というのは、生き物としては不自然な行為であるという事が言えそうです。ここでは、この二種類の文化について、便宜的に、前者を「伝承される文化」、後者を「生成する文化」と呼んでおきましょう。
 「社会」には、「伝承される文化」が厳然として流布し続けている以上、「生成」と「継承」との間には、どこかで軋轢が生じるわけです。ここで、「オタク文化」について考えてみたいのですが、この文化は、発祥以来、長らく「生成する文化」としての側面を色濃く持ちながら発展してきた側面が強いように思います。しかし、発祥からある程度以上の時間が経過して、担い手の多くが成長曲線のプラトーに到達してしまえば、彼らによって担われてきた「文化」は、必然的に「伝承される文化」に形を変えてゆくことになります。
 このことを具体的な局面に即して言うなら、従来「軋轢」は、「社会」と「(生成しつつある)オタク文化」の間で生じていたものが、現在や今後は、「既に世界の一部として成立したオタク文化」と「そこにキャッチアップしようとする個人」との間で軋轢が生じる、というように、 不連続面の位置が移動するのではないか、という事が言えそうです。
 もちろん、「既に世界の一部として成立したオタク文化」を「固定的・硬直的な制度」のように考える必要は無いでしょう。「文化」内部では、サブジャンルは常に生成し得るものであり、それらがせめぎあうトータルの力学によって「オタク文化」の枠組みもまた変転してゆく筈だからです。
 ただし、パッと見ただけでも、「オタク文化」には、既に現時点での「伝統」として成立していると思われる幾つかの特徴があるように見えます。一番表面的に判り易いのは「絵柄」、すなわち、あの目の大きな特徴的な顔の描き方でしょうが、それ以外にも、ストーリーや設定においては、伝奇・ファンタジー・SFなどの非現実設定をふんだんに盛り込むといった要素もありそうです。こうした作品では、「世界に対する闘争」といったものは、非現実設定を通じてのみ描かれるといった傾向があるように思います。すなわち、作者や読者自身の「現実」そのものの改変は不問に付されており、その意味で保守的と考えられます。
 日常的な設定を援用して作品を描く場合には、このオタク的保守性が現状肯定的な世界観を要請し、そうした作品世界が構築されるものと考えられます。「けいおん!」が「オタク的作品」だという言い分が、コンセンサスを得やすそうに思えるのはこの辺りが理由だと思えます。一方で、山田玲司の「アガベイズ」には、「典型的オタク的作品」とは評しにくい感覚が付き纏いますが、それも、ここに起因しそうです。すなわち、こちらは、「世界に対する闘争」を感覚的に「リアル」なレベルで描くことを志向しているという事です。
 但し、近年、「保守性」以外の部分では典型的な「オタク的作品」の規範を採用しながら、「保守性」に関してだけは、意図的に、それに対して反抗するような態度で描かれたタイトルが出現してきているのは、興味深い事態です。具体的には、アニメだけ見ても、「TARITARI」、「境界線上のホライゾン」などは、この類であるという事は言えるでしょう。こうした新しい動きによって、「オタク的」という感覚的な枠組みがどのように変転し、あるいは薄まっていくのだろうかといった動向には、今後、注目していきたいと思います。
 以上、テレビアニメ「けいおん!」「けいおん!!」に関連して考えたことを書き綴ってみました。

「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」 仲正昌樹 著 双風舎 2005年

 今回は、仲正昌樹 著「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」という本を取り上げてみたいと思います。
 さて、本題に入る前に、少し私の用語法に関する問題について説明しておきましょう。要は、なぜ敢えて「文字新造」のような真似をなぜするか、とうことです。
 どういう事かというと、この「デリダの遺言」など哲学・思想関係の入門的な本に目を通せば容易に判る事ですが、この本の中にも、例えばベンヤミンという批評家に関連して、「歴史」「自然」という用語が出てきます。読んでみればすぐ判る通り、ここで言われている「自然」とは、私の用語法で言う「生成」とほぼ同じ意味のようですし、「歴史」の方は「伝承」に該当するようです。このように、既に用語法の確立している概念に関してまでわざわざ語彙を「発明」することに、どんな意義があるというのでしょうか?
 それは、まず第一には、効率の問題です。つまり、私に固有の馴染んだ「文字コード体系」を援用した方が、文章が速く書けるという実利的な理由です。いちいち既存の語彙体系を参照してインタプリタみたいな真似をしてコードを吐くことも、原理的には可能ですが、それを実行するとなると、必要な語彙について、ある程度その指し示す範囲を妥当に把握しなくてはならくなるので、ぶっちゃけ「勉強」に時間を取られてしまうことになり、能率が悪すぎるのです。
 第二の理由は、こちらはもっと根本的な問題ですが、私自身の成育上の(私用語でいうところの)「生成」の度合が、「歴史」にキャッチアップする段階にまで達していないので、「伝承」由来の既存の「文字コード体系」を採用すると、私の大嫌いな「インチキあがり」という様相が実装されてしまうから、それはマカリナラン、という理由です。
 さて、前回のテレビアニメ「けいおん!」の項で、私の世界認識みたいなものは大体明らかになったと思います。繰り返すと、「生成」を通じて固有の「物語」を発達させた「子供→若者」が、ある発達段階で、次々に、「継承される」「歴史」へとランディングしてゆくことで「世界」が維持されている、というモデル系で世界を見ているわけです。このランディングは一種の「軋轢」であり、もっと言うと「闘争」なので、そこで何らかの「暴力」が生じるのは当然の事です。但し、「暴力」の発現の様相を、うまく「試合」として定式化するような手続き的な様式は、整備されてもいいのかも知れませんが。この闘争とは、「若者」がランディングの時点までに蓄積してきた固有の「物語」を、どれだけ「歴史」にネジ込めるか、というパワーゲームである、というワケです。。
 但し、今の日本の世の中は、このランディングが行われる舞台である「不連続面」の位置取りがおかしい、というのは間違いないと思います。「下」に下がり過ぎています。その結果、「生成」が不足している状態で性急に「ランディング」を強要されて、結果、世界に「着陸」することに失敗する若者が多数生じている事態は、確実にあると思います。ですから、「不連続面」の位置のアジャストが必要でしょう。
 まぁ、そんなワケですから、私は、世界というのは、動的平衡状態の上に成り立った定常的な系であると捉えているワケです。しかしながら、この本によれば、西洋の哲学の中心には、一つ、「楽園の回復/楽園への帰還」という観念が居座っているらしいのですが、なんですかそれ。たぶん、ユダヤ人の被害感情が原因で、反動的に変な非現実的観念が生じてしまったのでしょうが…。
 さて、本題に入りましょう。こうした「世界認識」という前提の上で、本書・仲正昌樹の「デリダの遺言『生き生き』とした思想を語る死者へ」を読むと、一体どうなるでしょうか?
 まずは、前半の、哲学、とくに「生き生き」の問題に関する歴史の概略に関してですが、このような話題は確かに興味深いのですが、いまだ「歴史」のレベルにキャッチアップしていない私にとっては、このような知識は頭の中に幾らかあったとしても、思考するに際しては、そのデータに対するアクセスは、基本的にはOFFにしておくべき種類の知識です。無論、こうした知識を随時参照して、自分の思考をコンバートしてその上に投射すれば、自分の「現在位置」が判明するという意味では有用ではありますが、想念を分節化するツール・「基本的文字コード」としてこうした先行的に整備済みの概念を採用するのは、今の状況では不適切と言えます。先ほどの、「文字新造」の第二の理由とは、こういった意味合いであるワケです。
 但し、「発明」といっても、そもそも新規の「文字コード」を完全な「無」から空中に「発明」する事は出来ません。そういう場合には、まず「部首」としての「ガラクタ」を組み合わせることが出発点になります。その為には、「知識の注入=受験勉強のようなタイプの詰め込み学習」もある程度必要です。さもないと、想念の分節化に必要な最低限の文字コードが頭にインストールされないからです。「文字新造」を行うにしても、最低限「部首」を登録しておかないと組み合わせようもないのです。
 そういう「ガラクタ」ベースの野暮ったい「コード体系」というモノも、運用してるうちに、一つの体系としてだんだん洗練されていったりするものではありましょう。そして、私は、「オタク文化」といったもの自体も、こうした一つの表象の体系として捉えることが出来ると考えているワケです。
 さて、この本のテーマは、現在日本の思想業界を席巻している「生き生き」という概念が、実は非常に胡散臭く、また危険でもあるような代物である、という主張です。前半では、その「生き生き」概念が、哲学史上でどのように扱われ、ときにどのような危険な惨禍を引き起こしてきたかが解説されています。後半では、現在、日本で「生き生き」を称揚するような論陣を張っている知識人が、一人一人、批判されています。
 著者の主張は、主に次のようなもののようです。
1.「生きた言葉」というものは、原理的にありえない。なぜなら、「言葉」は生き物ではないからである。
2.よって、「生き生き」していると自称する思想家などが、自分の「生きた」言葉を、自身の「生の声」を
  伝達し得るような「透明な」媒体である、と主張しているのは欺瞞である。
3.この「2.」に関連して、とりわけ「学問」においては扱う概念自体が「死んだ」概念であるため、なおの
  ことアカデミズムにコミットする「学者」が、自分の言葉を「生きている」と称するのは不適切である。
 おおよそこんなトコロでしょうか。
 さて、それでは、これに対して、この私自身は、一体どういう「生き生き」観、あるいは「生き死に」観を持っているのでしょうか。
 これは、前述の、私の「世界認識」からほぼ自動的に導出できますが、具体的に述べてみましょう。
1.人間は、単に事実として生き物である。その意味では、所詮「疎外された身体」といえども、実際に「死ん
  でいる」ことは、(自殺でもしない限りは)物理的現実によって許可されない。
2.「言葉」は生き物ではない。ただの道具である。
3.複数の人物間の「共通認識」は、単に「(人間という)生き物」の「道具」に過ぎない「言葉」を介して、
  相手の「生き」を憶測するという手続きを通じてしか、成り立たない。
 つまり、著者・仲正昌樹の言う「言葉」に関する「生き死に」観に関しては、すべて賛同する、という事です。
 その上で、著者の主張を振り返ってみると、論旨が混乱している点が明らかになります。それは、言葉を発する主体に関しての「生き死に」観が、ページによってブレていたり、「言葉」の「(自称)『生き死に』」の区別に引きずられる形で、その言葉の発話主体の生き死にが定義されていたりする点です。
 具体的に見てみましょう。
 序文7ページには、「言葉」を「発した生身の人間」という記述があり、ここでは人間そのものは、一般に「ナマモノ」と見做されています。
 ところが、途中の58ページでは、「私は、三歳のときに階段から落ちた後遺症で、右足が内股ぎみになっていたため、小さいときからスポーツは苦手であった。たぶん他人には身体の動かし方が、かなりぎこちなく見えていたはずである」と述べ、続けて「私は『疎外された身体』のよい標本だったことだろう。」と言い、自身が「ロボットのような」「死に系」の身体の持ち主だ、という論旨を展開します。この部分では、これに対照される存在として、「学校やストリートで暴れている不良少年や援交をやっている女の子」は、その「身体が反乱を起こしている」ので「相対的に『生き生き』している」、というようなありがちな話が引かれます。(著者自身も、これをありがちな陳腐な例という認識で例示しているようです。)
 そして、本の最後、253ページに至って、「バカなワンくんに吠えるためのネタを提供し続けるぐらいなら、田舎でひとり、『死に体』になっているほうがましである。思想というのは、けっきょく、『死んだ』ものでしかないのである。」などと述べてしまい、発している思想の「死に性」に引きずられる形で、著者・仲正昌樹自身が「死に体」である、などと述べてしまっています。
 ちなみに、著者は、この後、「プチ左翼の理論家たち」が、「受験勉強ばかりやって育ってきたような人間や人づきあいの悪い人間、そして人見知りする人間などに対して、」「『あなたはかわいそうですね』的な態度をとる。」と言い、「それでは、受験勉強ばっかりやってきて、”生きた現実”を知らない人間には立つ瀬がない。『私は生きていないのか』と文句を言いたくなる。」と立腹しています。
 あはははは、御意。まったく余計なお世話ですよねー。実際、私が高校・浪人時代に一生懸命に受験勉強をしたのも、必要だから、という以上に、単に楽しかったから、ですし。人が楽しんでやっていることを「かわいそう」よばわりするなんて、マッタクモッテ余計なお世話です。ですから当然、私は「ストリート」の「生きた現実」トヤラにも、何の興味もありません。私のようなタイプの「お勉強くん」にとって、「生きた現場」というのは、「自分の部屋」とか、下宿生なら「自分の下宿」での「生活」以外のナニモノでもないでしょう。ついでに言うと、学校の教室と予備校の詰め込みの講義室と行き帰りの通学の電車の車内も、私のような類にとっての「生きた現実」です。
 「お勉強くん」が「労働者」の「生きた現実」に触れに「山谷」に出かけるって? なにそれ。それ非日常。単なる「イベント」じゃん。
 ついでに言うと、「労働者の生きた現実」と言うとき、そこでは「『物理的』労働=価値(!))」というようなトンチキな錯誤が信じられている、と、この本には書いてありましたが、なにそれ。「商品」は「物体」の上に「情報(=価値)」が実装されているという構造をしているわけですがが、このレイヤーの切り分けを見失っているとしか思えません。「物体」が、「(概念である)価値」なワケないでしょう。
 あと、著者・仲正昌樹は、「ストリート」系の「生き」人間達にアテコスリを言う一方で、「アニメ・オタク」もまた「生の現実」なワケないだろ、という論旨も展開しています。その一つの拠り所として東浩紀を否定しています。もちろん、東浩紀の理屈はトンチキな屁理屈ですが、問題なのは、そういう屁理屈の是非ではありません。仲正昌樹は、アニメに関して、「つくっている人と見ている人がいて、商業的に成立している以上、そこに何らかの”現実”があるのは間違いない。」と述べています。御意。その通りで、そういう”現実”が存在するというだけのことです。当たり前のことです。
 むしろ問題なのは、「バーチャルがどうの」とか、「オタク的メンタリティが病理で云々」と言った言説を振り回すことで、そういう単純な「何らかの”現実”」を「否認しよう」とか「過剰な意味づけを与えて曲解しよう」というような、従前の社会的合意の方でしょう。その結果、東浩紀のように、反動作用で変な理屈をこねる人までもが現れてしまう。その結果、ますますオタクをめぐる言説空間は、奇妙に捻じれたモノになって行ってしまうワケです。
 さらについでに言うと、著者・仲正昌樹は「サブカル秀才」の代表例として、上述の東浩紀や、宮台真司を列挙しています。宮台真司に関しては、「左翼知識人」の代表例としても引いています。著者も本の最後の方で問題にしていることですが、彼ら「知識人」と、「生きた一般大衆」の二項対立は何を意味しているのでしょうか? 実は、この関係は、対立でも同盟でも、前者が後者を助ける正義の味方なのでもなくて、単に、相互に利用しあう共犯関係なのではないでしょうか?
 つまり、従来は「左翼知識人」は、「生きた一般大衆」の発言権を強奪する資格を、世の中的な合意によって承認されていたわけです。「一般大衆」の方は、発言権を強奪される代わりに、「左翼知識人」による「プロレス」を、「安全な客席」でニヤニヤしながら観覧する権利が与えられていたのでしょう。しかし、こうした図式は、「言論」を「メディア」に接続された「知識人」だけに許可すべし、という、従前の社会制度に対する適応として生じた構造に過ぎません。今後、前提となる制度が変われば、図式も変容してゆくに違いありません。
 以上、随分バサバサと有名なプロの批評家をメッタ切りにするようなことを書きましたが、まぁ要するに、新聞紙を丸めてチャンバラをやってるだけです。別に「刃物で」「切れる」ワケじゃありません。まぁ、私自身、過去にある方を、某所で木刀でメッタ打ちにするような真似をしてしまったこともあるので、ナニ言ってんだって話もありますが、まぁ、その話題は、また機会を改めて…。
 以上、仲正昌樹の「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」を読んで考えたことを、思うままに、書き綴ってみました。

「日本2.0」 東浩紀 編 genron 2012年

 羊頭狗肉という言葉がありますが、本書、東浩紀の「日本2.0」については、これと全く逆の印象を受けました。つまり、「狗頭羊肉」です。真っ当な内容の書物に、敢えてトンチキな書名を冠する。もちろん、東浩紀編集長を始め著者らもこうした奇妙さには気づいている筈です。では、なぜ、このような誇大妄想のような書名を冠したのでしょうか?
 私はその理由を、以下のように考えます。すなわち、様々な要因から、今、世の中的に変化が期待され、雨宮処凛の「プレカリアート」などの色々な運動が吹き上がっていますが、東浩紀の「日本2.0」とは、こうしたムーヴメントが暴走すると、一体どこへ帰結するか、という、一種のシンボルなのです。要するに、「世の中圧」が要請する運動が歯止めを失って暴走すると、こういう「誇大妄想」に帰着する、という筋道を、書物の形で体現することがこの「奇妙さ」の含意なのではないでしょうか。
 別の言い方をすると、「世の中圧」というような「問題」、すなわち「魔王」のキャラクター(悪の権化!)は、既に設定されていますから、これに対抗して、仮構の「勇者」のキャラ表を出した、ということです。このことによって、現在、日本社会で行われている「陣地戦」に、一つの構図を提供した、と言えるのではないでしょうか。
 つまり、この「陣地戦」といった「スポーツ」が、抽象論としては「万人の内面で、個人個人において行われる相克劇」のようなものだとしても、実際にそうした意識の働きが、表立った態度や行動として表明されるにあたっては、「フィールド」や「ルール」、「チーム分け」などが必要だ、ということです。
 繰り返しになりますが、既に「魔王」の意味が判明しており、その状況で「(概念として理想化された)勇者」を打ち出したということは、この「陣地戦」を実世界に実装するための一つの「基本ルール」が発表されたことを意味します。すなわち、本書「日本2.0」の出現によって、この「スポーツ」において、「誰に向かって、具体的に何を言い、どういう振舞い方をすると、どういう意思表示という意味になるのか」が、具体的に定義されたのです。文中に現れる人名(各稿の著者名を含む)は、主要PC(プレーヤーキャラクター)の早見表と考えていいでしょう。
 そういう意味では、本書「日本2.0」は、世間の現状に対する、一種の総括であるとともに、一層下のレベルでのカウンターバランスの機能も同時に包含している、と言えるのではないでしょうか。すなわち、本書を読めば、今、日本で(それ以外でも?)行われている「社会ゲーム」に、具体的に参加するための作法が、大体わかるわけです。その意味で、本書「日本2.0」は、まさに現代人必読の書と言っていいのではないでしょうか。
 以上が、東浩紀の「日本2.0」を読んで思ったことでした。

「終わりなき日常を生きろ」 宮台真司 著 筑摩書房 1995年

 宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」、この本を今、読んでみると、社会構造に関する、一種の究極的な定常状態での力学的モデルとしては完全に正しいのに、一か所だけ(敢えて?)誤った前提を置いていることがわかります。この過誤(欺瞞?)の結果、最終的に、「『終わらない日常』の中では、モテない奴は『永久に』モテず、さえない奴は『永久に』さえず、イジメられっ子も『永遠に』イジメられるしかない」と言うようなトンチキな結論が導かれてしまうというわけです。
 このトンチキな結論は、一方で「究極的な定常状態のモデル」として「完全に正しい」結論である「『永久に輝きを失った世界』のなかで、『将来にわたって輝くことのありえない自分』を抱えながら、そこそこ腐らずに『まったりと』いきていくこと」が「必要」だ、という主張とは、完全に矛盾しています。というのは、「モテない奴は『永久に』モテず、さえない奴は『永久に』さえず、イジメられっ子も『永遠に』イジメられるしかない」ということが意味するのは、「何かの偶然で貧乏くじを引いてしまった人は、『そこそこ』を目指す権利がありません」、という主張だからです。要するに「モテない奴」や「イジメられっ子」に対して、「あなた方はキャスティングの都合上『真っ黒』というキャラクターを引き当ててしまったので、一生その役回りを演じてください」という命令を下しているわけです。この結果、「真っ黒」を割り振られてしまった人が、「そんな地点に拘束されたくない」と言って不満を鬱積させ、反動作用で「真っ白」を目指してしまい、あらぬ事件が起こるわけです。
 では、なぜ一度引き当ててしまった「真っ黒」という役回りが、それを一生背負わざるを得ない宿命であるかのような、妙な結論が出てしまうのでしょうか?
 それは、社会構造の最上層で、権力が更新されずに固着している状態(この本が書かれた当時の、自民党(というか、一定の個人や集団による、特定の思想やイデオロギーなど)による固定的な政権の独占の維持状態)を、「定常状態」のモデルが含むべき要件である「権力が一定の速度で更新され続けている」という動的平衡状態であるかのような言い方をするという錯誤を犯している(乃至は言い繕っている)からです。間に介在する中間部分の社会構造内部での力学作用のモデルが全部正しいために、この錯誤(乃至は欺瞞)は、最下層に矛盾として帰結します。すなわち、最下層でも同様に「抑圧は固定されるべきだ」という結論になってしまうのです。
 今、同じ著者の本「愚民社会」を読むと、もちろん、現時点での宮台真司は、こうした錯誤に自覚的になった(乃至は、時代の変化で社会的な要請が変化したので、それに合わせて迎合目的で設置していた欺瞞を中止した)ように見えます。というか「愚民社会」の議論や主張は、極めて穏当で自明なことばかりが述べられていますから、少なくとも現時点での著者は、この「トンチキな結論」には、当然の事ながら、とっくに気付いている筈で、実際、「愚民社会」冒頭で「かつての援交少女」が「次々とメンヘラ―化していく事実にびっくりし」、「『援交少女は傷つかない』論争において自分が大塚英志に敗北したことを」「認めた」とまで述べています。にも拘らず、この、あまりにも自明な「権力や抑圧の固着」の問題点については、何らの意見撤回の表明を(敢えて?)していません。
 このことからは、当然の帰結として、この「錯誤」の「放置」は、一種の「判りやすい『釣り』」である、というか、ぶっちゃけた話、「ボケ」である、という憶測が妥当なものとして導かれます。つまり、「判りやすくボケてあげるので、だれか突っ込んでねー」というメッセージが、この「放置プレイ」の背後にある、と、私はそう見ました。
 そこで、私は、今、ここで、この「露骨な突っ込みどころ」に、わざわざ突っ込むという愚を犯してみました。
 以上が、今、宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」を改めて読んでみて思ったことでした。