2013年9月21日土曜日

「トンデモ本の世界」 と学会・編 宝島社文庫 1999年 (原版は、洋泉社 1995年)

 今回は、昔懐かしい本、「と学会」の「トンデモ本の世界」を取り上げます。
 さて、まず、ちょっと前提のおさらいから入りましょう。
 
 既に明らかにしたように、「最上層で権力が固着した世界」においては、社会構造内部に成り立つ力学的システムが要請する必然によって、社会最下層に於ける抑圧も固定化されます。すると当然明らかになるのは、「いじめ自殺」というものは、なんら「問題」などではなく、むしろシステムが正常に機能した結果生じた「成果」であるということです。
 すなわち、「自殺」という形で人身御供を選抜することが、そもそも最初から目的として存在するからこそ、社会システムがイジメという活動を組織しているわけです。そして、こうした機構によって生産される「自殺」なる産物の用途は、メディアによってこれを流布し、一般の娯楽に供する、ということです。まぁ、テレビの前で報道を聞きかじって憐憫の情に富んだ自分にうぬぼれてみたりする、というような形で、お茶の間に「癒し」を提供する、というような意義があるワケです。
 すると、学校における「教室」とは、こうしたスケープゴートの効率的な選別を可能にするうえで最適化された規模の、子供を囲い込む牢屋のパーティションであるということが言えます。「教室」というものがこの程度の規模であるなら、きわめて効率的にターゲットが選定されるわけです。そういう意味では、結果論とはいえ、系が自律的に生成すると、こうも最適な構造が自然発生するものか、という感嘆は、禁じ得ないところです。
 この場合、当然ですが、「人柱」として選抜されるものは「カタワ」です。あとで述べますが、こういう「スケープゴート選び」で重要なのは、その対象の「異常性」だからです。
 さて、「と学会」の活動とは、いわゆる「トンデモ」とされている、世の中で科学的な常識や自明な前提とされている世界観と明らかに齟齬をきたした主張・内容を有する著作を引き合いにだし、基本的には物笑いの種にする、というスタンスで、次々と紹介してゆく、といったもので、そういう意味では、一種の「吊し上げリンチ」という様相をショーアップ化したものという見方で捉えることができます。
 つまり、先に述べた「権力固着世界」において、このような機能を「装置学校」の水準で社会に実装した娯楽装置ということです。当時の世相から考えても、「権力」が完全に「固着」していた時代の必然として、こうした一種の「社会的装置」が発生して人気を博したことには、必然としての合理的な理由があると考えられます。
 ただし、私自身は、この種の「ショー」にたししては、確かに面白いと感じる一方で、ある種の嫌悪感を感じざるを得ませんでした。その理由は以下のようなものです。
 確かに紹介されている著作物の作者は、科学的理論や世界での共通認識から逸脱するような主張をしているのかも知れません。そういう意味では「知的カタワ」といっていいでしょう。この異常性が、彼らを断罪的・嘲笑的に取り上げることの、正当化への根拠となっているわけです。
 ただし、彼らのそういう「トンデモ」な認識枠組みが成立・固定化してしまった来歴を忖度した場合には、その「カタワな」枠組みにも、一種の内部整合的な歴史的必然が内在しているわけで、それを考慮することなく外部から断罪的・嘲笑的な評価を下すのは、「正しさ」による一方的な暴力であると思われます。そのように感じられたゆえに、「トンデモ」的娯楽、というスタンスに嫌悪感を感じてしまったのです。
 もう少し考えると、これは、一般に「きちがい」を「きちがい」と認定して断罪・排除する理屈に通じるものがあるという事が言えます。
 つまり、「正常な人」が、認識枠組みのネゴシエーション不可能なほどの自分との不連続を相手の中に認定すると、その相手を「きちがい」と断定して直ちにすべてのコミュニケーションを切断して「病院」に閉じ込めるのです。しかし、「正常な人」が「きちがい」の中に「正常性」を認定できないとしても、その「きちがい論理」独自の「経緯としての必然性」を考慮する必要は存在すると考えられますから、「切断」は不当です。
 なぜなら、「正常な人」の認識の構成要素と言えども、あらゆるパラメーターが平均値や中央値を取っているとは限らず、「きちがい」の異常な枠組みと言えども、値の極端な偏倚でしかなくて、それ以上の意味があるわけではないからです。その意味で、両者の齟齬は、相対的でしかありません。
 しかしながら、ある臨界値を超えた認識の偏倚である、とされて一方的に「正しい圏」から排除されてしまった結果「病院」に送致された「きちがい」は、もはや二度と、世界すべてとのコミュニケーションの可能性を絶たれることになります。
 すると、こうした「異常な枠組み」を「常識」と擦り合せるべく調節したり、新たな認識を加えることで枠組みを変化させる機会を絶たれることになります。「切断」は、「きちがい」を、固定化して袋小路に追い込んでしまう結果を招くのです。あるいは、「きちがい」側に、何らかの整合的に正当化できる認識が内包されていたとしても、それを「正常圏」に還流し、これを契機として活用して「正常圏」のあり方をアジャストするというようなことも出来なくなります。
 もちろん、上述した「イジメ」といったものも、「コミュニケーション遮断」による排除の一種ですから、本質的には「きちがい扱いすることで人を追い込む」というシステムの一環です。自殺してしまえばその時点で「現実(=物理的世界そのもの)」から排除されてしまいますから、「追い込み」はそれで終わりですが、この選抜過程で「自殺」にまで至らなかったターゲットの場合は、後々「きちがい」として発現するように、システムが予め被害者の内部に一種の「遅延装置」を組み込んでいる、という捉え方ができます。
 すると、この種の「予約された時限式きちがい」といった手合いは、学校の現場ではなく、卒業後に、いずれ社会で消費されることになります。というのも「きちがい」は社会的娯楽なので、イジメ被害者であれ精神病患者であれ「トンデモ」の作者であれ、共通することは、「正常な」人から見ると面白い、という事であるからです。
 そんなわけで、「きちがい」は、学校、病院、社会など、いろいろなレベルの広さの世界で広く娯楽として楽しまれてきた、という来歴が、この日本の社会には存在していると言えるでしょう。その一つの端的な表れとして、例えば「と学会」の人気というものがあり、連日続く「イジメ報道」というものがある、という観点から事態を把握することも可能だと思います。
 そして、この背後にある共通のメカニズムとして、「きちがいを娯楽として消費する」というものの考え方が横たわっているのです。
 今回は以上です。

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