2013年9月21日土曜日

「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」 仲正昌樹 著 双風舎 2005年

 今回は、仲正昌樹 著「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」という本を取り上げてみたいと思います。
 さて、本題に入る前に、少し私の用語法に関する問題について説明しておきましょう。要は、なぜ敢えて「文字新造」のような真似をなぜするか、とうことです。
 どういう事かというと、この「デリダの遺言」など哲学・思想関係の入門的な本に目を通せば容易に判る事ですが、この本の中にも、例えばベンヤミンという批評家に関連して、「歴史」「自然」という用語が出てきます。読んでみればすぐ判る通り、ここで言われている「自然」とは、私の用語法で言う「生成」とほぼ同じ意味のようですし、「歴史」の方は「伝承」に該当するようです。このように、既に用語法の確立している概念に関してまでわざわざ語彙を「発明」することに、どんな意義があるというのでしょうか?
 それは、まず第一には、効率の問題です。つまり、私に固有の馴染んだ「文字コード体系」を援用した方が、文章が速く書けるという実利的な理由です。いちいち既存の語彙体系を参照してインタプリタみたいな真似をしてコードを吐くことも、原理的には可能ですが、それを実行するとなると、必要な語彙について、ある程度その指し示す範囲を妥当に把握しなくてはならくなるので、ぶっちゃけ「勉強」に時間を取られてしまうことになり、能率が悪すぎるのです。
 第二の理由は、こちらはもっと根本的な問題ですが、私自身の成育上の(私用語でいうところの)「生成」の度合が、「歴史」にキャッチアップする段階にまで達していないので、「伝承」由来の既存の「文字コード体系」を採用すると、私の大嫌いな「インチキあがり」という様相が実装されてしまうから、それはマカリナラン、という理由です。
 さて、前回のテレビアニメ「けいおん!」の項で、私の世界認識みたいなものは大体明らかになったと思います。繰り返すと、「生成」を通じて固有の「物語」を発達させた「子供→若者」が、ある発達段階で、次々に、「継承される」「歴史」へとランディングしてゆくことで「世界」が維持されている、というモデル系で世界を見ているわけです。このランディングは一種の「軋轢」であり、もっと言うと「闘争」なので、そこで何らかの「暴力」が生じるのは当然の事です。但し、「暴力」の発現の様相を、うまく「試合」として定式化するような手続き的な様式は、整備されてもいいのかも知れませんが。この闘争とは、「若者」がランディングの時点までに蓄積してきた固有の「物語」を、どれだけ「歴史」にネジ込めるか、というパワーゲームである、というワケです。。
 但し、今の日本の世の中は、このランディングが行われる舞台である「不連続面」の位置取りがおかしい、というのは間違いないと思います。「下」に下がり過ぎています。その結果、「生成」が不足している状態で性急に「ランディング」を強要されて、結果、世界に「着陸」することに失敗する若者が多数生じている事態は、確実にあると思います。ですから、「不連続面」の位置のアジャストが必要でしょう。
 まぁ、そんなワケですから、私は、世界というのは、動的平衡状態の上に成り立った定常的な系であると捉えているワケです。しかしながら、この本によれば、西洋の哲学の中心には、一つ、「楽園の回復/楽園への帰還」という観念が居座っているらしいのですが、なんですかそれ。たぶん、ユダヤ人の被害感情が原因で、反動的に変な非現実的観念が生じてしまったのでしょうが…。
 さて、本題に入りましょう。こうした「世界認識」という前提の上で、本書・仲正昌樹の「デリダの遺言『生き生き』とした思想を語る死者へ」を読むと、一体どうなるでしょうか?
 まずは、前半の、哲学、とくに「生き生き」の問題に関する歴史の概略に関してですが、このような話題は確かに興味深いのですが、いまだ「歴史」のレベルにキャッチアップしていない私にとっては、このような知識は頭の中に幾らかあったとしても、思考するに際しては、そのデータに対するアクセスは、基本的にはOFFにしておくべき種類の知識です。無論、こうした知識を随時参照して、自分の思考をコンバートしてその上に投射すれば、自分の「現在位置」が判明するという意味では有用ではありますが、想念を分節化するツール・「基本的文字コード」としてこうした先行的に整備済みの概念を採用するのは、今の状況では不適切と言えます。先ほどの、「文字新造」の第二の理由とは、こういった意味合いであるワケです。
 但し、「発明」といっても、そもそも新規の「文字コード」を完全な「無」から空中に「発明」する事は出来ません。そういう場合には、まず「部首」としての「ガラクタ」を組み合わせることが出発点になります。その為には、「知識の注入=受験勉強のようなタイプの詰め込み学習」もある程度必要です。さもないと、想念の分節化に必要な最低限の文字コードが頭にインストールされないからです。「文字新造」を行うにしても、最低限「部首」を登録しておかないと組み合わせようもないのです。
 そういう「ガラクタ」ベースの野暮ったい「コード体系」というモノも、運用してるうちに、一つの体系としてだんだん洗練されていったりするものではありましょう。そして、私は、「オタク文化」といったもの自体も、こうした一つの表象の体系として捉えることが出来ると考えているワケです。
 さて、この本のテーマは、現在日本の思想業界を席巻している「生き生き」という概念が、実は非常に胡散臭く、また危険でもあるような代物である、という主張です。前半では、その「生き生き」概念が、哲学史上でどのように扱われ、ときにどのような危険な惨禍を引き起こしてきたかが解説されています。後半では、現在、日本で「生き生き」を称揚するような論陣を張っている知識人が、一人一人、批判されています。
 著者の主張は、主に次のようなもののようです。
1.「生きた言葉」というものは、原理的にありえない。なぜなら、「言葉」は生き物ではないからである。
2.よって、「生き生き」していると自称する思想家などが、自分の「生きた」言葉を、自身の「生の声」を
  伝達し得るような「透明な」媒体である、と主張しているのは欺瞞である。
3.この「2.」に関連して、とりわけ「学問」においては扱う概念自体が「死んだ」概念であるため、なおの
  ことアカデミズムにコミットする「学者」が、自分の言葉を「生きている」と称するのは不適切である。
 おおよそこんなトコロでしょうか。
 さて、それでは、これに対して、この私自身は、一体どういう「生き生き」観、あるいは「生き死に」観を持っているのでしょうか。
 これは、前述の、私の「世界認識」からほぼ自動的に導出できますが、具体的に述べてみましょう。
1.人間は、単に事実として生き物である。その意味では、所詮「疎外された身体」といえども、実際に「死ん
  でいる」ことは、(自殺でもしない限りは)物理的現実によって許可されない。
2.「言葉」は生き物ではない。ただの道具である。
3.複数の人物間の「共通認識」は、単に「(人間という)生き物」の「道具」に過ぎない「言葉」を介して、
  相手の「生き」を憶測するという手続きを通じてしか、成り立たない。
 つまり、著者・仲正昌樹の言う「言葉」に関する「生き死に」観に関しては、すべて賛同する、という事です。
 その上で、著者の主張を振り返ってみると、論旨が混乱している点が明らかになります。それは、言葉を発する主体に関しての「生き死に」観が、ページによってブレていたり、「言葉」の「(自称)『生き死に』」の区別に引きずられる形で、その言葉の発話主体の生き死にが定義されていたりする点です。
 具体的に見てみましょう。
 序文7ページには、「言葉」を「発した生身の人間」という記述があり、ここでは人間そのものは、一般に「ナマモノ」と見做されています。
 ところが、途中の58ページでは、「私は、三歳のときに階段から落ちた後遺症で、右足が内股ぎみになっていたため、小さいときからスポーツは苦手であった。たぶん他人には身体の動かし方が、かなりぎこちなく見えていたはずである」と述べ、続けて「私は『疎外された身体』のよい標本だったことだろう。」と言い、自身が「ロボットのような」「死に系」の身体の持ち主だ、という論旨を展開します。この部分では、これに対照される存在として、「学校やストリートで暴れている不良少年や援交をやっている女の子」は、その「身体が反乱を起こしている」ので「相対的に『生き生き』している」、というようなありがちな話が引かれます。(著者自身も、これをありがちな陳腐な例という認識で例示しているようです。)
 そして、本の最後、253ページに至って、「バカなワンくんに吠えるためのネタを提供し続けるぐらいなら、田舎でひとり、『死に体』になっているほうがましである。思想というのは、けっきょく、『死んだ』ものでしかないのである。」などと述べてしまい、発している思想の「死に性」に引きずられる形で、著者・仲正昌樹自身が「死に体」である、などと述べてしまっています。
 ちなみに、著者は、この後、「プチ左翼の理論家たち」が、「受験勉強ばかりやって育ってきたような人間や人づきあいの悪い人間、そして人見知りする人間などに対して、」「『あなたはかわいそうですね』的な態度をとる。」と言い、「それでは、受験勉強ばっかりやってきて、”生きた現実”を知らない人間には立つ瀬がない。『私は生きていないのか』と文句を言いたくなる。」と立腹しています。
 あはははは、御意。まったく余計なお世話ですよねー。実際、私が高校・浪人時代に一生懸命に受験勉強をしたのも、必要だから、という以上に、単に楽しかったから、ですし。人が楽しんでやっていることを「かわいそう」よばわりするなんて、マッタクモッテ余計なお世話です。ですから当然、私は「ストリート」の「生きた現実」トヤラにも、何の興味もありません。私のようなタイプの「お勉強くん」にとって、「生きた現場」というのは、「自分の部屋」とか、下宿生なら「自分の下宿」での「生活」以外のナニモノでもないでしょう。ついでに言うと、学校の教室と予備校の詰め込みの講義室と行き帰りの通学の電車の車内も、私のような類にとっての「生きた現実」です。
 「お勉強くん」が「労働者」の「生きた現実」に触れに「山谷」に出かけるって? なにそれ。それ非日常。単なる「イベント」じゃん。
 ついでに言うと、「労働者の生きた現実」と言うとき、そこでは「『物理的』労働=価値(!))」というようなトンチキな錯誤が信じられている、と、この本には書いてありましたが、なにそれ。「商品」は「物体」の上に「情報(=価値)」が実装されているという構造をしているわけですがが、このレイヤーの切り分けを見失っているとしか思えません。「物体」が、「(概念である)価値」なワケないでしょう。
 あと、著者・仲正昌樹は、「ストリート」系の「生き」人間達にアテコスリを言う一方で、「アニメ・オタク」もまた「生の現実」なワケないだろ、という論旨も展開しています。その一つの拠り所として東浩紀を否定しています。もちろん、東浩紀の理屈はトンチキな屁理屈ですが、問題なのは、そういう屁理屈の是非ではありません。仲正昌樹は、アニメに関して、「つくっている人と見ている人がいて、商業的に成立している以上、そこに何らかの”現実”があるのは間違いない。」と述べています。御意。その通りで、そういう”現実”が存在するというだけのことです。当たり前のことです。
 むしろ問題なのは、「バーチャルがどうの」とか、「オタク的メンタリティが病理で云々」と言った言説を振り回すことで、そういう単純な「何らかの”現実”」を「否認しよう」とか「過剰な意味づけを与えて曲解しよう」というような、従前の社会的合意の方でしょう。その結果、東浩紀のように、反動作用で変な理屈をこねる人までもが現れてしまう。その結果、ますますオタクをめぐる言説空間は、奇妙に捻じれたモノになって行ってしまうワケです。
 さらについでに言うと、著者・仲正昌樹は「サブカル秀才」の代表例として、上述の東浩紀や、宮台真司を列挙しています。宮台真司に関しては、「左翼知識人」の代表例としても引いています。著者も本の最後の方で問題にしていることですが、彼ら「知識人」と、「生きた一般大衆」の二項対立は何を意味しているのでしょうか? 実は、この関係は、対立でも同盟でも、前者が後者を助ける正義の味方なのでもなくて、単に、相互に利用しあう共犯関係なのではないでしょうか?
 つまり、従来は「左翼知識人」は、「生きた一般大衆」の発言権を強奪する資格を、世の中的な合意によって承認されていたわけです。「一般大衆」の方は、発言権を強奪される代わりに、「左翼知識人」による「プロレス」を、「安全な客席」でニヤニヤしながら観覧する権利が与えられていたのでしょう。しかし、こうした図式は、「言論」を「メディア」に接続された「知識人」だけに許可すべし、という、従前の社会制度に対する適応として生じた構造に過ぎません。今後、前提となる制度が変われば、図式も変容してゆくに違いありません。
 以上、随分バサバサと有名なプロの批評家をメッタ切りにするようなことを書きましたが、まぁ要するに、新聞紙を丸めてチャンバラをやってるだけです。別に「刃物で」「切れる」ワケじゃありません。まぁ、私自身、過去にある方を、某所で木刀でメッタ打ちにするような真似をしてしまったこともあるので、ナニ言ってんだって話もありますが、まぁ、その話題は、また機会を改めて…。
 以上、仲正昌樹の「デリダの遺言 『生き生き』とした思想を語る死者へ」を読んで考えたことを、思うままに、書き綴ってみました。

0 件のコメント:

コメントを投稿