2013年9月21日土曜日

「終わりなき日常を生きろ」 宮台真司 著 筑摩書房 1995年

 宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」、この本を今、読んでみると、社会構造に関する、一種の究極的な定常状態での力学的モデルとしては完全に正しいのに、一か所だけ(敢えて?)誤った前提を置いていることがわかります。この過誤(欺瞞?)の結果、最終的に、「『終わらない日常』の中では、モテない奴は『永久に』モテず、さえない奴は『永久に』さえず、イジメられっ子も『永遠に』イジメられるしかない」と言うようなトンチキな結論が導かれてしまうというわけです。
 このトンチキな結論は、一方で「究極的な定常状態のモデル」として「完全に正しい」結論である「『永久に輝きを失った世界』のなかで、『将来にわたって輝くことのありえない自分』を抱えながら、そこそこ腐らずに『まったりと』いきていくこと」が「必要」だ、という主張とは、完全に矛盾しています。というのは、「モテない奴は『永久に』モテず、さえない奴は『永久に』さえず、イジメられっ子も『永遠に』イジメられるしかない」ということが意味するのは、「何かの偶然で貧乏くじを引いてしまった人は、『そこそこ』を目指す権利がありません」、という主張だからです。要するに「モテない奴」や「イジメられっ子」に対して、「あなた方はキャスティングの都合上『真っ黒』というキャラクターを引き当ててしまったので、一生その役回りを演じてください」という命令を下しているわけです。この結果、「真っ黒」を割り振られてしまった人が、「そんな地点に拘束されたくない」と言って不満を鬱積させ、反動作用で「真っ白」を目指してしまい、あらぬ事件が起こるわけです。
 では、なぜ一度引き当ててしまった「真っ黒」という役回りが、それを一生背負わざるを得ない宿命であるかのような、妙な結論が出てしまうのでしょうか?
 それは、社会構造の最上層で、権力が更新されずに固着している状態(この本が書かれた当時の、自民党(というか、一定の個人や集団による、特定の思想やイデオロギーなど)による固定的な政権の独占の維持状態)を、「定常状態」のモデルが含むべき要件である「権力が一定の速度で更新され続けている」という動的平衡状態であるかのような言い方をするという錯誤を犯している(乃至は言い繕っている)からです。間に介在する中間部分の社会構造内部での力学作用のモデルが全部正しいために、この錯誤(乃至は欺瞞)は、最下層に矛盾として帰結します。すなわち、最下層でも同様に「抑圧は固定されるべきだ」という結論になってしまうのです。
 今、同じ著者の本「愚民社会」を読むと、もちろん、現時点での宮台真司は、こうした錯誤に自覚的になった(乃至は、時代の変化で社会的な要請が変化したので、それに合わせて迎合目的で設置していた欺瞞を中止した)ように見えます。というか「愚民社会」の議論や主張は、極めて穏当で自明なことばかりが述べられていますから、少なくとも現時点での著者は、この「トンチキな結論」には、当然の事ながら、とっくに気付いている筈で、実際、「愚民社会」冒頭で「かつての援交少女」が「次々とメンヘラ―化していく事実にびっくりし」、「『援交少女は傷つかない』論争において自分が大塚英志に敗北したことを」「認めた」とまで述べています。にも拘らず、この、あまりにも自明な「権力や抑圧の固着」の問題点については、何らの意見撤回の表明を(敢えて?)していません。
 このことからは、当然の帰結として、この「錯誤」の「放置」は、一種の「判りやすい『釣り』」である、というか、ぶっちゃけた話、「ボケ」である、という憶測が妥当なものとして導かれます。つまり、「判りやすくボケてあげるので、だれか突っ込んでねー」というメッセージが、この「放置プレイ」の背後にある、と、私はそう見ました。
 そこで、私は、今、ここで、この「露骨な突っ込みどころ」に、わざわざ突っ込むという愚を犯してみました。
 以上が、今、宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」を改めて読んでみて思ったことでした。

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