2013年9月21日土曜日

「魔法少女まどか☆マギカ」 新房昭之 監督 TBS 2011年

 今回は、しばらく前に一世を風靡した名作アニメ、「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げます。私がこのアニメを見たのは、本放送が終了してからだいぶ経ってケーブルテレビでの再放送でした。本放送時には、雑誌で見てもあまり目立った印象がなかったので、録画しなかったのです。
 この作品では、ストーリー上、展開に工夫はこらされていますが、おおよその構図としては、五人の魔法少女たちによる「魔女」なる、この世界に厄災をもたらす存在に対しての戦いが描かれます。そして、設定的なキモとなるのが「魔女」という存在の位置づけです。「魔女」とは、「希望」によって魔法を行う魔法少女が、その願いをすべて使い果たした時に、願いを支えてきた希望が反転して絶望に転換し、無限の怨嗟や怨念を吐き出す存在になってしまったもの、と規定されているようです。
 まどかは、当初、いきなり転校してきて、早々に切れ者の才媛ぶりを示すほむらが、なぜ自分に対して執拗に魔法少女になるな、と迫るのか、全く理解できませんでした。しかし、ストーリーが進行するにしたがって、まどかとほむらの因縁が明かされていきます。かつて、ほむらは、魔女に襲われているところをまどかにすんでのところで救われたことがあったのです。しかし、その後、まどかは強力な魔女と一人で戦って死んでしまいました。
 その時までに、まどかが大好きになっていたほむらは、死んでしまったまどかを救いたい、生き返らせたいと望み、自ら時間遡行の能力を持った魔法少女となりました。そして、何度もまどかと一緒に戦って、まどかを殺した強力な魔女を倒そうと試み、そのたびに失敗して何度も時間を遡行して同じ試みを繰り返し続けていたのです。何度もループを繰り返すうちに、ほむらはどんどん強力な魔法少女になりましたが、一向に最終魔女ワルプルギスの夜が倒せません。まどかと協力しても一度も勝てませんでした。そして、実は、この第一話からのストーリーが、ほむらが繰り返してきた多数回のループのうちの最終周の物語であったことが明かされます。このループでは、ほむらはもはやまどかを魔法少女としては当てにせず、彼女を普通の人間にしておいたままで、一人でワルプルギスの夜を倒そうと試みますが、また失敗します。
 結局、この時、ほむらの危機を察知して魔法少女となったまどよって魔女は倒されましたが、まどかは引き換えに存在を失い、時空に存在する概念的な神的存在に成り果ててしまう、というラストを迎えました。
 さて、物語のあらすじは以上のようなものです。この作品は、テーマ的に言って、ありていな言葉でいうなら、「深い」とか「深遠な」とかいった形容が似合いそうな作品です。人間の善悪な観念が、きわめて魅力的なビジュアルを援用して戯画化され、ダイナミズムにあふれたストーリーが展開します。人間の邪悪・悪意の結実を表す「魔女」の斬新というにはあまりにも斬新すぎるビジュアルの数々は衝撃的ですし、これに対抗する者を「魔法少女」という、古くからアニメ作品の中では慣れ親しまれてきた存在として表すというのも、人間の善意とか正義を象徴する者は、実は日常的な、よくあるような者達である、という主張の現前と言えるでしょう。
 しかしながら、本来、どこにでもいる人間にすぎなかった魔法少女たちは、キュウベエ(インキュベーター)という宇宙から来た存在によって、魂を肉体から切り離されてしまうという、「人間」であろうとした場合には「過酷」といえる処置を施されてしまうことによってのみ「魔法」による魔女との戦闘が可能になる、という設定が設けられています。なんとなれば、肉体と精神が合一した状態では、傷つけられる痛みに耐えられないからです。この、「肉体と精神の分離」という制約によって、魔法少女たちの戦いは、次々と悲劇的な結末を迎えてしまいます。
 また、もう一つ重要なコンセプトは、人間の善意と悪意は対になって等量だけ発生するものであり、どちらかだけがどちらかを凌駕することはありえない、と定められています。この設定が、物語内における論理的なバックボーンとして敷かれています。
 この二つの前提によって、魔法少女のさやかは死亡するに至りました。
 まどかとほむらは、結局のところは、この制約をも無視してワルプルギスの夜に挑み続けましたが、結局まどかは、最後の周回でワルプルギスの夜に勝利するに当たっては、自らの「存在を失う」ことによってのみこれを達成できるにとどまり、もはや人間ではあり得ませんでした。
 しかし、鑑賞した感想として、いくつかこれらの作中で提示されている見解には異論を持たざるを得ません。
 第一に、マミの死亡のプロセスが了解不能です。まどかが現れて孤独で亡くなったマミがパワーアップするというのなら話は分かるのですが、なぜそのこと油断(?)によるが敗北・死亡に繋がってしまうかがわからない。
 第二に、さやかの死に関してですが、前提が二つとも疑問です。
 一つは、なぜ「痛みを回避する」ために「精神と肉体を分離する」必要があるのか理解できません。「痛い→行動不能」というのが共感できない。確かに、痛いのに行動すれば、行動終了後にしばらく回復が必要になりますが、それは戦闘が終わってから休憩すればいいのであって、なぜ「戦闘中にリアルタイムで痛い」ことが回避されなくてはならないのかが不明です。これはマミの場合と原理的に同じ問題ですが、痛覚にせよ気の緩みにせよ、戦闘終了後にすればいいのです。
 二つには、善悪が対生成、対消滅するという観念が共有できません。善にしろ悪にしろ、一度誰かの内部に発生したものが雪だるま式に大きくなったりすることはあるでしょうし、場合にとってはその転がり落ちてゆく過程を意図的に止めることもできるでしょう。常に振れ方が双方向に等量である必要はないと思います。
 第三に、杏子が自分のためだけに魔法を使うことを決意した理由は、父親が教会での布教を、自分の理屈を混入させたものに変質させたことで新興宗教じみたものにしてしまい、結果的に信者を失ったのが遠因でした。ただ、この場合、この父親の不当な野心が問題です。いきなり「新しい信仰」を「世を救う」ために発明するなど、一介の教会の神父には度の過ぎる目標です。こういう場合は、まずは堅実に、文字通り単なる「新興宗教」から始めるのが妥当です。その「新興宗教」で当面救える人数など当初はせいぜい数人、十数人といったところでしょうが、そういうところからだんだん拡大して目的に近づいてゆくのが筋というものであって、いかに世を憂いていたといっても、突然「世を救う」というのは、当面の目標としては過大です。
 第四に、まどかが存在を失った理由が不明です。これは第一に、まどかが自分自身の魔女化(=絶望)をキャンセルするために存在を失ってしまいましたがこの理由が不明です。絶望をキャンセルしたら満足感だけが残って終わり、というのなら話は分かるのですが、この作品の理屈には共感できない。この本筋からいうと、「すべての魔法少女の救済」は単に結果的に生じてしまったついでのことであって、まどかの意図は彼女たちの救済には向けられていない以上、因果がフィードバックする理由がない。
 唯一納得できる理屈は、最終周回でまどかに救われたほむらが、その後、作り変えられた世界で魔獣を倒し続けると決意した動機です。ですが、実のところ、そもそもまどかが存在を失う理屈自体が不明な理屈なので、ほむらが魔獣を倒し続けるという状況自体があり得ないはず。
 もちろん、こうした終わり方には、ある種の意図があってのことではあろうとは思います。すなわち、ちかく公開が予定されている劇場版第三作「叛逆の物語」においては、おそらくまどか、またはほむら、あるいはその双方によって、上述のような不自然を否定するための戦いが行われ、最終的にはまどかは単なる人間として世界に帰還し、一方、ほむらはまどかの消滅ゆえに始めた無限の戦いに終止符を打つことになるのでしょう。近く公開される映画に期待したい所です。そして結局、まどかにしても、世界に帰還してしまえば、新しくなった世界で、魔獣と戦ってゆくことになるのでしょう。

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