2013年9月21日土曜日

「いつまでもデブと思うなよ」 岡田斗志夫 著 新潮新書 2007年

 この本は、著者・岡田斗司夫自身の「ダイエット」による急激な痩身について書かれたものであることは周知ですが、実際に読んでみて、ダイエットの実行にまつわる方法論の論理化・つまり本の主要部分に関しては、「ずいぶんいらぬ理屈をこねてるなー」という感想しか持てなかったと言わざるを得ません。
 ただし、巻末付近で出てくる「欲望型」と「欲求型」という類型化は、すんなりと納得できる論旨でした。つまり、「頭の欲望に忠実なタイプ」VS「体の欲求に忠実なタイプ」という二分法を行って、前者が太りやすいタイプ、後者が痩せやすいタイプ、という対比をしています。この切り分けには納得できました。
 私自身の来歴を振り返れば、この区分に従えば、明らかに「欲求型」です。というのも、前回述べた通り、私は中学時代には、それこそ「アクセル・ワールド」の「ハルユキ」のような外見の(いや、実際には、あれほど膨れ上がった自然体でもないもっと萎縮したチビデブの)イジメられっ子だったワケですが、中学卒業後に急激に痩せて外見が変わってしまい、いわば「身体」に「少女を実装」してしまったという経緯があるのです。そして、今、この本を読みながら当時の事を思い出すと、このプロセスは、どうやら環境からのストレスによる圧迫が無くなった結果、抑圧されていた「体の欲求」が具現化してしまうことによって生じた、必然的な不可避な過程であったように思われるのです。
 このメンタルの身体化の過程が起こったのは、中学卒業後すぐ、高校一年生の頃でした。この時期には、進学したことで苛烈なイジメもなくなり、それまでに比べれば、平穏な日々を過ごしていました。一学期の頃は、中学時代にコミュニケーション能力を完全に破壊されていたために孤立もしていたのですが、その後、転校生が仲良くしてくれるなど、次第に周囲も好くしてくれるようになってきたのです。周りも、見るからに事情が分かったので、その辺は配慮してくれたものと思われます。例えば、夏の合宿のために班分けした際に、入る班がなくて教室で孤立していたら、声を掛けてくれる人達もいましたしね。まぁ、そうやって過大なストレスが抜けてきたわけです。
 すると、急激に痩せはじめ、その結果、自分の「かわいい」を発見してしまい、ナルシズムがループ開始という結果に相成りました。
 この際、ナルシズムの循環の暴走に一役買ったツールが、写真でした。以前から鉄道の撮影には入れ込んでいたのですが(と言っても、中学生程度ですから、駅構内でパカパカ撮る程度のことではありますが。何度か上野駅にダイヤ改正前後に通い詰めたりしていました。)、一眼レフを買ってもらっていたこともあって、他に適当な部活もなかったため、高校では写真部に入ってしまったわけです。ここで、鉄道以外にも写真の世界というものがあるという事を垣間見たり、やった事のなかった現像とか紙焼きとかの技術に触れることになりました。(モノクロですが。というか、このころ、高校生の部活程度なら、カラーなんて普通有りませんでしたし。)
 そして、ナルシズムのループという事では、初めは単に「鏡でうっとり」ぐらいの即物的な事だったのですが、上のような経緯を経て、すぐに「自分撮り」に狂い始めてしまいました。つまり、殆ど際限なく自分を撮影しまくるわけです。傍目には、明らかに気持ち悪いレベルの自己陶酔と言っていいでしょう。
 まぁ、そうやって「体の欲求」である「少女化」が具現化することで「動物化(生き物化?)」が進んだわけですが、そうは言っても元々がカタワ程度の者なので、現在から思い返せば、その時期にも相当ひどいレベルの身体的な挙動不審があり、それは中学以降も相変わらず残存しています。
 「写真写り」という、一種の特殊な状況に対して特異的に適応することによってメンタルの身体化が進行したことから、静止画の状態で一瞬、身体の持ちようが「見れる絵」になるという、一種、悪い意味でピーキーなだけの適応が生じて現在に至っているわけです。その結果、このフェイスブックのプロフィール写真のような、「一見マトモそう」というような自影写真が生じてしまう結果になります。ただし、実際には本人はもっとヘンで、写真のファインダー無しに自由に遊離状態で行動していると、たちまち挙動がオカシクなるという…。
 まぁ、しかし、単なる「写真写り」程度の事であっても、結構「身体感覚」みたいなモノについて満たされるという自覚的な現象はあるワケで、そのことが、人格が自壊してしまうことに対して歯止めになっています。そういう意味では、カタワなりの部分的適応とは言えども、これはこれで悪くない、と感じているのです。
 そんなわけなので、このナルシズムの循環暴走によるトラウマの補填という過程を、引いた視点から冷静に見ると単に気色悪いだけなのですが、ただし、だからこそ、それによって私が得たものも大きかったと言っていいのです。
 先に述べたような、私の経験したようなレベルのイジメを通過した子供は、往々にして、「世界なんか滅んじゃえ」とか、「誰でも殺す」という方向に欲求不満の矛先が向かってしまいがちな筈なのですが(そうやって巷にトンチキな事件が繰り返し起こる)、私の場合、突然、「誰でもだいすき」になってしまったわけです。敵でも、嫌な奴でも、「その人がこの世に居ること」自体は、例外なく「だいすき」なのです。当然、世界も、前提として、肯定すべきもの以外の何物でもない。過剰な自己愛に引きずられて、ルサンチマンが裏返ってしまったのです。明らかに理屈の流路がオカシイです。
 まぁ、こういう意味では、そのイカレ方や、変な過度の愛まで含めで、やはり、「ステキ」という話になると思うんですよね、私の場合。単純に「ステキ」と言った場合とは、意味が違言うんですけど。
 今回はこんなところです。本の感想というより、「自分語り」が中心になってしまいましたが…。

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