これはちょっと卑怯で無責任な感じなので、今回は、彼・東浩紀の代表的著作「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」を取り上げて、なぜその「理屈」が「屁理屈」なのかを具体的に説明したいと思います。
この本においては、宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」において、社会構造の力学的モデルを正しく記述したにもかかわらず、時代固有の例外的事態であったはずの「権力の固着」を自明視してしまった際と、同じ種類の錯誤が見て取れます。つまり、執筆の時点で時間が永久に停止したままだ、という前提を、この二冊は共有しているのです。
結果的に、東浩紀は、「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作る」という自らの志を裏切るような結論に陥っています。
こうなってしまった理由としては、理論を構築する出発点として、状況を単に観察することよりも、先行するポストモダン理論の読み替えに依拠してしまった部分が大きいと思うのです。さらに、「歴史が進歩する」という西欧由来の誤理論を典拠にしてしまったことも、もう一つの理由でしょう。多分、「歴史の進歩」は、日本では、弥生時代あたりでもう終わっていて、あとは単にテクノロジーのレベルに規定される「歴史」の拘束条件が変動しているだけなのです。「歴史」自体は何ら進歩していません。
東浩紀は、「『ポストモダン』には『表層』しか存在しない」と規定するらしい「リゾーム」理論に替わって、「データベースモデル」を提示したところまではいいのですが、「データベースモデル」を「在来の『伝承される文化(=大きな物語)』と対置するという構図が既におかしい。実は、「大きな物語」自体が一つのデータベースに過ぎない筈です。ただ、「伝承される文化」は、世代を跨いで継承されてきた関係上、整合性に関するメンテナンスが継時的に永く続いてきた経緯があり、その為、単一の「物語」であるかのように見えるところまで無秩序な散乱が回収されて構造的な形に収縮しているだけでしょう。
一方で、「オタク文化」もまた当然「データベース」ですが、およそ「文化」である以上、「データベース」であるのは当然の事です。なぜ「文化」が「データベース」以外のもので有り得ないかと言えば、言葉を介さない直接の共感というものが存在しない以上、「万人がダイレクトに共有する単一の物語」という観念が妄想だから(少なくとも近似値でしかないから)です。「オタク文化」が混乱しているように見えるのは、メンテナンスが行われてきた経緯が、まだ短い持続時間しか持ち得ていないのが原因でしょう。
その際、東浩紀の持ち出す概念「動物化」とは、生成しつつある「オタク文化」の内部での「オタク」の行動様式を記述する部分的に妥当な理論に過ぎず、これが「世界全体」を覆い尽くすわけではないのです。よく考えると「子供」の行動原理が「動物」だというのは、単なる同語反復です。
なおまた、彼が言う「シニシズム=スノビズム」とは、オタク文化の「生成」が十分な程度に達してきたことから、来るべき「世界へのランディング」に伴う「暴力時代」を予見して、「オタク」たちが怯えてしまったのでしょう。その結果、「ここで時間を止めたい」というような、反動的な主張が発生してしまったのです。
ただ、最近のアニメを見ていると、「リトルバスターズ!」や「サイコパス」は、この「ランディング」に関して、盛んに著名な文学作品の名文を引用するなどして、いかにも「機が熟した」、と言いたげです。すると、現に起こりつつあり、今後しばらく続く事態とは、「オタク文化」が「(伝承される)世界」に対して侵攻し、「世界」側が迎撃する、というコンフリクションという事になるでしょう。
さて、すると、宮台真司の言う「島宇宙化」という概念の意味も明らかになってきます。
「動物化するポストモダン」では、宮台真司の理論も参照しながら、若者集団を「新人類」と「オタク」という形に二分してモデル化していますが、要するに前者は迎撃側に与する者(コバンザメ)、後者は侵攻側に与する者(ブタ)であるというわけです。80年代には、最上層の権力の固着に呼応する形で、両者の間には具体的な戦端は開かれず、永く「冷戦」が維持されていたわけです。
そういう意味では、「終わりなき日常を生きろ」は迎撃側の「聖典」、「動物化するポストモダン」は侵攻側の「聖典」、と言ってもいいかもしれません。そう考えると、「終わりなき日常を生きろ」が「完全自殺マニュアル」(鶴見済)に必要以上にツラく当たっている理由も理解できます。「完全自殺マニュアル」は、ブタが、「戦端を開く糸口がない」と言って七転八倒している書物だからです。
もちろん、別にこれらの書物の出現まで、こういう概念が無意識・無自覚にでも存在していなかった、と言っているのではなく、そういう想念を明示的な「条文」に書き下したのが彼らだった、と言っているのです。
ちなみに、今の日本では、社会には既に、その第一線には、本来の「生き物」である「サメ」は殆ど残っておらず、大半の社会的現場では、「コバンザメ」が、上が古いという分厚い逆地層を形成しており、それだけのものになってしまっています。そういう意味でも、「生き物」である「ブタ」が登場する機運は高まっていたのではないかと思います。
さて、この「コバンザメ」と「ブタ」の区別は、以下のようにして生じます。
すなわち、「制度学校(=現実の学校制度)」に在学しているうちに、個人の「生成」の問題としてランディングまで到達した人間は「迎撃側」になり、そこまでいかずに「世界」に放り出されてしまった人間は、「侵攻側」として振る舞わざるを得ないのです。そのため、「侵攻側」の人間には、「制度学校」からの「進学先」としての、仮想的な「装置学校」(例えばコミケのような場)が必要になります。
そして、基本的には「侵攻側」の資質を持っているにもかかわらず、「チート」を行って「チンチクリンの七五三オトナ」へと「インチキあがり」してしまうと、「迎撃側」の「大人の世界」に入り込むことができますが、彼ら「七五三ロボット」の資質を見破っている「侵攻側」の人間から叩かれる結果となります。要するに、「裏切り者」呼ばわりが免れない、ということです。
具体的には、唐沢俊一・岡田斗司夫などの著名な論者はこれに該当するでしょう。彼らに対しては、「現実」における「仲間」であるはずの「迎撃側」の「大人」たちも、その正体は見破っていますから、いつまでたっても珍獣扱いするわけです。「けっ、コザカシイだけのガキが!」と、そういう見方になってしまうのです。
あ、でも、言い添えておくと、岡田斗司夫の「オタク浮世絵論」は、すべての出発点になっているという意味で、歴史的な偉業ですが…。あと、岡田斗司夫の「オタキングダム」とその頓挫とは、「業界」を舞台に一人で「装置学校」を捏造しようとしたものの、その場所は「迎撃側」の領土であった以上、当然失敗した、という顛末なわけです。
一方、唐沢俊一のいいところは、「俺、コザカシイだけのガキだよーん。けけけけけ。ムカツクだろ?」という態度に殆ど意図的に徹しているところですね。
ちなみに、あとは知っている範囲では、大月隆寛は岡田斗司夫と同じタイプの典型的な「七五三ブタロボット」、山形浩生はギリギリ滑り込みセーフでランディングが間に合った最下層のコバンザメであると思われます。
この辺を勘案すると、山形浩生が、別冊宝島「自殺したい人々」掲載の「『たかる』社会に『たかる』人びと」中で、「だめ人間」に対して「自殺したい? うん、いいだろう。きみたちはもう、社会に何も貢献しないと決めてるんだし、邪魔しないよ。」「『かわいそうだねぇ』と言う以上のことは(いやそれすら)誰もしなくなるだろう。」と言っている理由も判り易くなります。ブタは迎撃すべき敵ですからねぇ。
ただ、山形浩生はコバンザメと言っても、所詮は生き物としては出来損ない程度の者であり、かろうじて最下層にヘバリ付いているだけなので、「ぼくだってフリーソフトの人のはしくれで、しかも共産主義者で自由主義者なので」とか「お葬式くらいは最後のサービスで出してあげるかな。」などと、思わず口が滑って人間味溢れる事を書いてしまうワケです。
だから、「新教養主義宣言」の末尾にある、「確かにぼくは、橋本治にいろんなこと教わっている。ありがとう。」という言葉には、二つの意味があるものと考えられます。
第一には、橋本治の、自分にはない生き物としての圧倒的な「まともさ」に対する恐怖感の表明。第二は、橋本治を引き合いに出すことで、虎の威を借るキツネ的に、自分がさも生き物として上位の存在であるかのように詐称したい、という欺瞞の顕示です。「新教養主義宣言」を通じて見られる山形浩生の、チンチクリン性の反動として生起している極端な虚勢は見るからに痛々しいものですが、この巻末にチョロッと現れた馬鹿正直さは、読んでいて、とても微笑ましく、非常にいとしい感じがします。
さて、東浩紀は、その後、「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」において、上で指摘した欠陥に対して、だいぶ自覚的になってきていますが、まだ不十分な点もあります。
一つは、「自然主義リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」を同格のものとして対置しているモデルです。、「伝承」と「生成」の関係を考えると、これはおかしい。「自然主義リアリズム」が「伝承される文化」にランディングした過去の経緯について振り返っている一方で、「自然主義リアリズム」と現時点での「伝承される文化」を同一視するような記述があります。実際には、「自然主義リアリズム」は、一サイクル前に「伝承される文化」にランディングした「(明治初期当時の)若者文化」であり、「伝承される文化」にとっては、あくまでも部分集合であって、全体ではありません。
それから、「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」の区分は、原理的に無効です。
例えば、「魔法少女まどか☆マギカ」の第十話を二回見たからと言って、「この操作でループの回数が二倍になった」という言い分は成り立つでしょうか?
東浩紀自身、「アニメやマンガのような小説」と「ゲームのような小説」の峻別は、「成立しない」と言っていますが、これは「小説」に限ったことではなく、そもそも「アニメやまんが」と「ゲーム」の峻別自体が無意味なのです。なぜなら、どちらにせよ「作品」は「テキスト」であり、ある種の「言葉」に過ぎません。どこを何回リピートして再生したとかは、実質的な想念の伝達機能には関係ないのです。
総じて、東浩紀の議論は、やはり、動機の部分に問題があると思います。「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作る」と言っておきながら、特に「動ポモ」は、「動物化理論」が内部で整合性を保っている、これが自己無矛盾な公理系である、ということを根拠に、蔑視されてきた「オタク」の正当性を、反動的に言い募るようなバイアスがかかっています。
「『オタク』が矮小化されて語られている(きた)」という認識には同感ですが、それを覆したいなら、「(生成しつつある)オタク」の「内部」を無矛盾に記述する理論を立てて、その整合性をいくら主張しても無意味でしょう。その外部に別の公理系があることは、原理的に妨げられませんから、こういう主張をしても無効です。
そうではなくて、「オタク文化」という、新興の「想念分節化コード」をツールとして用いた場合に、「オタク」が人間の想念をかなりのカバー率で記述し得るような独自の「言語体系」として、現時点で、もはや成り立っている、という例示を積み重ねた方が有効ではないでしょうか?
もちろん、この作業で何かが論理的に「証明」されるわけではありませんが、実質的な状況証拠を積み上げる、という意義があるはずです。
え? 言いたい放題言っている私は何者か、って?
私はもちろん、典型的な「侵攻する者」「ブタ」の一人です。ただそれだけの者ですよ。
以上、東浩紀の「動物化するポストモダン」を読んで考えたことを思うままに書き綴ってみました。
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