この本は、確かに著者自身が主張する通り、従来の「客観的な」セクシャリティ論では扱われなかったような角度から、男性のフェチや性的志向の問題に切り込んでいます。その際に参照基準となるのは常に著者自身の実感である点で、過去に積み上げられてきたこうしたジャンルの著作とは一線を画しているといってよいと思います。
さて前回までに、私がトラウマによって人格が自壊してしまうのを防止するための殆ど無自覚な戦略として、自分の身体上に「少女」を実装してしまう、という適応を行ってしまった、という話をしました。この本の内容には、こうした話題に関連する内容も含まれていて、興味深いものがあります。
まず、ミニスカートに対するフェテシズム的執着の問題について、そのメカニズムを、著者は、自分の嗜癖を根拠に解剖していきますが、この論点には、実に共感的に納得出来るものがありました。すなわち、「隠す意思」そのものに男は惹かれている、という結論が述べられています。そして、中盤以降では、「ロリコンやフィギュア萌えオタクは、自分が『汚い』『男の体』を抜け出して、少女の体に乗り移りたいのだ」という論旨が展開されます。
さて、既に前回までに、私は如何にして自分の身体上に「少女」を実装してしまったか、といういきさつについては、ざっと述べてきました。かいつまんで振り返ると、中学時代にイジメに伴って一種の強姦的な被害を被ったために、これが男性性の「去勢」となってメンタルが女性化してしまい、それに引きずられて外見や振る舞いを、その心性に合致させてしまった、というのが、おおよその成り行きでした。
ゆえに、例えば私のpixivのアカウントを見れば分かるように、私の(イラストなどの)表現上に出現する「視姦される少女」とは、要するに自分のセルフイメージなのです。表現上に自分を展示しているわけです。
著者・森岡正博は、自分が痴漢に遭った際の経験を引いて、自身が「狙われる体」であることを「耐え難いことであった」と述べています。私の場合も、電車で二度ほど痴漢に遭いましたが、その際には、嫌悪感よりは、自分のメンタル的な快感を満たされる感覚が先に立ってしまい、これらの件では、自身のメンタルが女性化してしまっていることを再確認させられました。
さて、この「偽装身体」を実装するに当たっては、もちろん内部の「小動物」は、偽装を開始した高校入学の時点ではあまりにも小さすぎたため、、外皮の「偽装身体」との間には大きな空隙が出来てしまっていたわけですが、可能な限りこの「小動物」を育成することで「偽装身体」内の空隙を埋め合わせ、最終的には「偽装身体」を撤去して、外装を育成した「小動物」そのもので置換する、というような将来展望を考えていたわけです。「小動物」がそもそも「少女」のミニチュアになっているために、こうした展開が妥当だと構想したということです。
ちなみに、私の言う「ロボット」は、「おじさん」を、偽装身体の雛型にしていると思われます。ただし、「ロボット」の戦略上の欠点は、内部の「動物」を育成しても、最終的に外装の撤去が困難だということです。「おじさん」と「ミニチュア少女」は形状が異なるために、単純に置換できないのです。
そして、私が「おじさん」より「少女」の方が、自分の偽装身体として、よりふさわしいと感じている理由は、内面的なイメージに対する親和性が「少女」の方が高いからです。「おじさん」は違和感が大きすぎて実装できないのですね。これはやはり、「強姦被害」によって、自分の男性としての自信を破壊されているのが原因と思われます。
ともかく、「居方」の佇まいのまとまりをよくして「人間然としたオタク」を目指すなら、「身体偽装戦略」は有効だ、という事は言えると思います。その際、「性的被害」のようなタイプのイジメといったトラウマを抱えている場合は、「偽装身体」としては、「おじさん」よりも「少女」のほうが馴染むはずだ、というのが、私が自分の経験から導いた意見です。
そして、「偽装身体」として何を使うか決めかねたり、そもそも「身体偽装」に価値を見出さないと、キャラが荒廃して、「ハゲデブ」系統のオタクになってしまうものと思われます。その場合には、こういった「キャラ(というかキャラの不在)」に落ち着いてしまった相手に対しては、周囲はどう対応していいか扱いかねてしまう、という問題が生じると思います。オタクに関連してしばしば取り沙汰されるコミュニケーション能力の欠如の問題は、こうした枠組みから理解することもできると思います。まぁ、最初から孤立を決め込んでそもそもコミュニケーションに関心がない人の場合は、身体偽装というような問題には興味が無いかもしれませんが…。
そんなわけで、、私は、この本の著者が「不可能な願望」として述べている「少女の体に乗り移る」という行為を、少なくとも自覚のレベルでは現に実行してしまったのです。特に私の場合、自分の顔の造作と、トルソー部分の形状は、自分で自分の体に欲情するには十分なシロモノでした。スネ毛が濃いというのは男性的特徴の残滓として残りましたが、全体のバランスからすると、この点は、私にとっては、それほど大きな痂疲とはなりませんでした。いざとなれば剃ってしまえばいいんだし、と暗黙に考えていたからですね。
そうやって「少女の体を内側から生き」「自分で自分の体を真に愛し」た結果、生じた事態は、オナニーが「不感症」ではなくなってしまった、という結果でした。よって、著者の言う「射精後の敗北感」という感覚が、共感的には理解できません。ただ、快感の残響が徐々に薄れてゆく過程が、まどろんでいるようで気持ちがいいだけです。
このように、概念的な意味で「少女に乗り移って」自己完結してしまっているために、少なくとも自分の内的必然としては、「身体」に関する不満というものは、オナニーといった性欲処理の問題まで含めて、特に抱えてはいません。問題が発生したのは、ナルシズムを含めたこのような完結の仕方が、男性という定義の上では完全に異常であるために、この完結している系全体を隠蔽しなくては、という強迫観念が生じたことによります。ただ、今回、ブログを書くという機会にあたって、こうした私に組み込まれている系全体を暴露してしまったため、「身体」に関しては、自覚としては、何も問題点を感じなくなりました。
著者はまた、「男の不感症」を抑圧していると、反動作用で「権力」を追求してしまうので、「不感症」を自覚することで「やさしさ」を獲得できるはずだ、という論旨も、巻末付近で展開しています。私の場合にも、「やさしさ」を追求する一方で、「権力的なもの」にたいする執着傾向も同時に存在しており、こういう人格構造の矛盾は内包していますが、私の場合は、この問題点は、「不感症」との直接の接点は無いように感じています。
結論から言うと、私の場合は、この分裂が生じている理由は、自尊感情がうまく機能していないためです。もちろん、この事態もまた、直接的にはイジメが原因で引き起こされたものですがら、セクシャリティの逸脱の件と、問題としては同根なのですが、私は「身体」や「性」の問題は「自分の体」で回収してしまったために、自尊感情の不全・劣等感といったものだけが、単独で残存してしまったのです。
この問題を辛うじて埋め合わせていたのは、小学校卒業時に、親が私を受験上の理由から強制的に他地区の中学に入学させようとして引っ越した際に、同じクラブ(まんがクラブ)に所属していた友人が私が居なくなると知って泣き出した、という経験でした。この経験が、私でも、一度は他人に心底好かれたことがある、という自信を繋ぎとめる根拠として大きな働きをしていました。
最近不安定になっている理由の一つが、妄想によって、この経験が親の根回しによって行われた「演出」だったのではないか、と疑い出してしまった、という事なのですが…。まぁ、率直に言って、あんまりそれは信じたくないなぁ、というのが本音ですが…。
そういう意味では、今後、感情的な安定を確立するためにも、あまり孤立してばかりもいられないのでしょう。誰かに「素」で好かれるようになってゆく必要が、あるのだと思います。
今回は、こんなところです。
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