さて、まず最初に、異メディアにおける同一タイトルの扱いという問題に少し言及しておきましょう。本稿で「けいおん!」「けいおん!!」という時には、テレビアニメのみならず、原作のコミックも指し示す対象に含まれます。ここで問題のなるのは、こういった、「いわゆるメディアミックスによる展開を、個々の作品ごとに、『異なる作品』として厳密に峻別すべきか?」、という論点です。私は、このような場合には、異メディアの個々の作品を、個別に別個の作品として扱うよりも、それら全体を、ある程度纏まりを持ったコンテンツの複合体といった概念で捉えた方が、今現在のマンガ・アニメ・ゲーム等の作品を取り巻く実状に即しているのではないかと考えます。
しかしながら、特に高年齢層のマニアなどを中心に、こうした異なるメディアの作品は、厳密に切り分けて別個に扱うべきだという立場は、かなり強固に存在しようかとは思います。プロの評論家の間にも、こういう「節度」に対する自覚は少なからず存在するようで、例えば、一例を挙げれば、夏目房之介は、新書「マンガと『戦争』」(講談社現代新書 1997年)の中で、「『新世紀エヴァンゲリオン』について」という項目の冒頭で、「本当いうと、この作品について触れる気はなかった。もともとテレビアニメ作品で、マンガの単行本はテレビアニメの話をなぞりながら、執筆現在四巻までしか出ていない。そこでは話は、まだほんの少ししか進んでいない。が、この作品には現在のマンガの『戦争』イメージと、侵食された身体のイメージがよくあらわれている。」などと述べており、懸命に「マンガ」と「テレビアニメ」を比較することの「不当性」を回避するためのエクスキューズを設定しようとしているかのようにも見えます。
しかし私は、こうした異メディア作品間の比較を、単に「ナンセンス」として棄却するという立場は取らないのです。無論、メディアが異なる以上、直接の比較は出来ませんが、手続き論的に一定の前提を置けば、比較可能であるという立脚点で話を進めたいと思います。こういう場合には、無理に切り分けることで、かえって話の見通しを悪くするのではないかと思うのです。
では、ここで言う「一定の前提」とは何かというと、一般に作品の論評や評価という場合に、そうした言説はどのような構造になっているだろうかという部分に留意したいのです。ここで、私の立場として、「作品を評価する」、という場合、そういう言説は、主に二つのレイヤーから成る、という考えを置きます。
一つ目のレイヤーは、作品が表現している「概念」・「気分」・「美学」・「意見」・「思想」…など、内容的な側面に関する見方です。「表現したいもの」「テーマ」などと呼ぶことも出来るかも知れません。
二つ目のレイヤーは、そうした「内容」を、どうやって形にするかという、「実装」としての側面、また、その達成度に関する評価です。ウェルメイドであるかどうかという尺度とも言えるかも知れません。この意味での一つの立場としては、判りやすく説得力のある絵や文章・映像といった描写に価値を見出す考え方があり得ます。もちろん、解りやすいことは唯一の価値ではなく、わざと難解にしたり、読解にブレの生じる余地を残したりして、その読み解きそのものをゲームとして楽しませたり、複数の「内容」が読解如何によって出現したりするような仕組みを予め作っておく、といった戦略性もあり得ます。しかし、ひとつの尺度としては、判りやすさや説得力、整合性といったものを肯定的に観るのは、評価ということを行う上で、有り得るモノの見方ではあります。
そして、ここで言う「手続き論的」な「一定の前提」とは、一つ目のレイヤーは直接比較可能だが、二つ目のレイヤーは、個々のメディアに即した読み替え・変換を行わなければ比較不可能だ、という、一種自明な前提です。
ちなみに、本稿では、「けいおん!」のほかに、これと対極的なポジショニングを占めているマンガ作品の一例として、山田玲司の「アガペイズ」(小学館1998~2000年)にも多少言及しますが、この二作品は、共に、上述の「実装」という側面では高いレベルにあるということは言えると思います。(もっとも、両者共に絵柄には、それぞれ難点と表裏一体不可分のような特徴(個性)がありますが…。かきふらい の原作コミックでは、立体感に乏しい切り絵のような描写は特徴的ですし、一方、山田玲司は、ディテールの潰れた、ごちゃごちゃした描写をする描画上の癖があるようです…。)
さて、本題ですが、確かアニメの山田尚子監督本人がどこかの雑誌のインタビューで語っていたはずなのですが、それによれば、「けいおん!」「けいおん!!」の眼目の一つは、「主人公たちの『世界の狭さ』」にあるとのことでした。この言い分の言わんとする意味は、作中で、物語は、いわゆる身の回り半径1メートルとか3メートルとか、そういう「日常」の範囲で展開するのである、という事だと思われます。
このことを言い換えれば、「『大きな共同幻想』とか、(もっと言うなら)『誇大妄想』から自由である」という見方も可能であろうと思います。つまり、大きな「社会(=『誇大妄想』)」とは関係ないところでストーリーが展開する、という特徴があるということです。これは、先行するマンガ作品に例を探せば、かつて、ゆうきまさみ の「究極超人あ~る」(小学館)が採用した手管であると言えます。この意味で、私は、「けいおん!」とは、世の中が一周して螺旋の一周先の同じ位相に達した結果、「あ~る」が帰ってきたモノである、という風に捉えています。この意味で、かつて「あ~る」楽しんだ者である私にとって、「けいおん!」「けいおん!!」は嬉しい作品でした。勿論、男女のキャラクターが居た「あ~る」に対して、「けいおん!」のキャラクターは女の子ばかりである、などと意匠は異なりますが、これは単なる表層部分の「仕上げ」というか、「ラッピング」の問題である、と私は見ています。
こうした「けいおん!」的な「等身大の」作劇の対極にあるのが、山田玲司 的な世界観であるとよいでしょう。こちらでは、ある種の「成長観」に依拠する世界解釈が作品内で貫徹しています。今は、その一例として「アガペイズ」を参考にしますが、ここには、独特の強固な「若者観」といったものが見て取れます。すなわち、「若者」が「成長」=「社会化」=「社会への全面的コミット」といった強迫観念に取り憑かれていると言っていいでしょう。そこでは主人公達「若者」は、いまだ、まともに社会に承認されていない一方で、影にヒナタに「社会」へのコミットを通じて「一人前」になることを強要されている存在として描かれており、この結果、一種の矛盾した立場へと切迫したニュアンスで追い詰められており、その結果、そのメンタルはコンプレックスの塊のようなものになっています。
一方で、「けいおん!」の登場人物は、全くそのようには追い詰められておらず、その結果、抑圧もメンタルの歪みといったものも、存在しません。ここで興味深いのは、「けいおん!」の主人公達は、追い詰められていないにもかかわらず、ある種のモチベーションを持っている点です。そこで、私の意見は、「『けいおん!』的なものとは、『自身の【外部】に由来する既成の社会的な概念にコミットしなかった場合に、その世界ではどのような物語が導かれるのか』、という思考実験なのではないか?」、という見解です。この思考実験が示す結論は、「『抑圧』は『物語』発生の必要条件ではない」、というテーゼではないでしょうか?
ここで、「社会」を「誇大妄想」である、と断じてしまいましたが、この言い分は、上で「共同幻想とか、(もっと言うなら)『誇大妄想』」と述べたように、「社会」の存在を共通認識たらしめる「認識」がそもそも「共同幻想」であるからには、社会自体が、一種の「仮構(=『誇大妄想』)」ある、という主張です。ゆえに「現実」とは一種の「誇大妄想」であり、「現実」が時系列に沿って展開したものである「歴史」もまた「誇大妄想」の系譜的展開です。ここで、「文化」とは、ある価値体系が継時的に受け継がれることですから、「文化」もまた「誇大妄想」の継承であり、こういった「誇大妄想」の一つの表れ方に他ならない、という事になります。
ここで、巷間「大人になる」といった言い方が、何か「問題」のように取り沙汰される理由は、上述の「現実=歴史=誇大妄想」という、人間に固有の事情に起因するのではないかという観点に着目したいのです。なぜなら、「大人」の「現実」とは無関係な場所で成長してきた「若者」にとっては、「社会」の「現実」とは、外来的に上からやってくるものだからです。
もちろん重要なのは、「文化」を単に「上」から一方的にやって来る「世代を跨いで伝承される誇大妄想」とだけ捉えたのでは、物事の半分しか見ていないという点です。「文化」には、もう一つの側面があると考えられます。すなわち、人が子供から若者へと育っていく過程で見聞きした物事を、自ずと体得して再生産する結果生じる、「子供社会内部で自発的に生成する文化」です。先に述べたような、「抑圧」抜きでも自発的に「生成」する類の「物語」としての「文化」です。
このように、「若者」には「社会」はなくても固有の「物語」は既に存在し、一方で、「社会」には、「継時的に受け継がれる」「文化」が、(若者の視点からは)既にア・プリオリに存在してる以上、両者が衝突する地点では、何らかの軋轢が生じます。こういう意味では、実は「適応」というのは、生き物としては不自然な行為であるという事が言えそうです。ここでは、この二種類の文化について、便宜的に、前者を「伝承される文化」、後者を「生成する文化」と呼んでおきましょう。
「社会」には、「伝承される文化」が厳然として流布し続けている以上、「生成」と「継承」との間には、どこかで軋轢が生じるわけです。ここで、「オタク文化」について考えてみたいのですが、この文化は、発祥以来、長らく「生成する文化」としての側面を色濃く持ちながら発展してきた側面が強いように思います。しかし、発祥からある程度以上の時間が経過して、担い手の多くが成長曲線のプラトーに到達してしまえば、彼らによって担われてきた「文化」は、必然的に「伝承される文化」に形を変えてゆくことになります。
このことを具体的な局面に即して言うなら、従来「軋轢」は、「社会」と「(生成しつつある)オタク文化」の間で生じていたものが、現在や今後は、「既に世界の一部として成立したオタク文化」と「そこにキャッチアップしようとする個人」との間で軋轢が生じる、というように、 不連続面の位置が移動するのではないか、という事が言えそうです。
もちろん、「既に世界の一部として成立したオタク文化」を「固定的・硬直的な制度」のように考える必要は無いでしょう。「文化」内部では、サブジャンルは常に生成し得るものであり、それらがせめぎあうトータルの力学によって「オタク文化」の枠組みもまた変転してゆく筈だからです。
ただし、パッと見ただけでも、「オタク文化」には、既に現時点での「伝統」として成立していると思われる幾つかの特徴があるように見えます。一番表面的に判り易いのは「絵柄」、すなわち、あの目の大きな特徴的な顔の描き方でしょうが、それ以外にも、ストーリーや設定においては、伝奇・ファンタジー・SFなどの非現実設定をふんだんに盛り込むといった要素もありそうです。こうした作品では、「世界に対する闘争」といったものは、非現実設定を通じてのみ描かれるといった傾向があるように思います。すなわち、作者や読者自身の「現実」そのものの改変は不問に付されており、その意味で保守的と考えられます。
日常的な設定を援用して作品を描く場合には、このオタク的保守性が現状肯定的な世界観を要請し、そうした作品世界が構築されるものと考えられます。「けいおん!」が「オタク的作品」だという言い分が、コンセンサスを得やすそうに思えるのはこの辺りが理由だと思えます。一方で、山田玲司の「アガベイズ」には、「典型的オタク的作品」とは評しにくい感覚が付き纏いますが、それも、ここに起因しそうです。すなわち、こちらは、「世界に対する闘争」を感覚的に「リアル」なレベルで描くことを志向しているという事です。
但し、近年、「保守性」以外の部分では典型的な「オタク的作品」の規範を採用しながら、「保守性」に関してだけは、意図的に、それに対して反抗するような態度で描かれたタイトルが出現してきているのは、興味深い事態です。具体的には、アニメだけ見ても、「TARITARI」、「境界線上のホライゾン」などは、この類であるという事は言えるでしょう。こうした新しい動きによって、「オタク的」という感覚的な枠組みがどのように変転し、あるいは薄まっていくのだろうかといった動向には、今後、注目していきたいと思います。
以上、テレビアニメ「けいおん!」「けいおん!!」に関連して考えたことを書き綴ってみました。
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