2013年9月22日日曜日

「民主主義が一度もなかった国・日本」 宮台真司・福山哲郎 幻冬舎新書 2009年

 この本では、第一の著者・宮台真司が、当時、自民党から政権交代した民主党の政党の中枢にいる、第二の著者である政治家・福山哲郎にインタビューするというような形式で、政権交代によって日本の何が変化して何が変化しないのかというような話を展開しています。現在は既に再び自民党の政権下にあり、今となっては民主党への政権交代も一過的なものだったとも振り返ることもでき、また、政界では、いわゆる第三極の動向なども注目を集めていますが、この本が出版された時点では、民主党に対して政権政党としての期待も高かったということなのでしょう。

 話は、日本の内政から外交にまで多岐にわたり、その中でも権威主義的な「お任せ政治」の転換のことを強調しおり、民主党への政権交代がその一つのメルクマールであると述べています。そして、それを成し遂げたのは他ならぬ国民自身なのだ、と強調していました。
 しかしながらその中で、著者・宮台真司が特に強調していることは、「何もかもが変わったわけではない」と言った指摘でしょう。著者は、繰り返し述べていますが、民主党に政権が交代したからと言って、何もかもが変わったのではないと言っています。特に、日本人に特徴的な心性として、慣れ親しんだものの急な変化に抵抗しがちだ、という指摘を行っていました。このことを指して「社会的リソースの不変」という言い方をしているようです。

 ですから、巻末付近で著者らは、日本で変わったものは、いわば現実というゲームのルールが変わった、と述べています。つまり、変わるといっても、ムラ社会的な日本的な社会的リソースが不変という前提下では、リソース自体は変わらない。変わるものとは「自明性」であると言っています。そして、その自明性の変化によって新しいゲームが始まったのだ、と、ここで著者らは主張していました。

 では、その新しい自明性・すなわち別の言い方では「ルール」とは何でしょうか。事は、政治の問題だけではなく、この国において暮らしていく上でのリアリティの問題に及ぶと思われます。ですから、ここで重要なのは、日本的特質とされてきた、外面的ふるまいと肚の中の乖離の在り方に関する自明性が変わるということなのではないでしょうか。私が思うに、それは以下のようにまとめることができると思います。

----------------------------------------------------------------------
ゲームのルール1
行為、言論、主張、表現など、すべての人の行いがことごとくそれそのものであるということ、それが21世紀のゲーム的リアリティ現実の最も基本的なルールである。


 ゲームのルール2
己を知る者に、自己を自分が自分だと感じている通りに承認させた者が、この現実における勝利者である。
逆に、相手に不整合を押し付けることで他人をおとしめて相対的に自分を優位とすることもできるが、この方法ではその特定の相手にしか勝利し得ない。


 ゲームのルール3
自分を知る者に、自己を己が感じている通りの者であると承認させるには、様々な方法がある。列挙すると、

1.スポーツ、芸能など、直接自分の身体を利用してディスプレイを行うパフォーマンス系統の自己表現行為
2.文学、マンガ、アニメなどメディア作品を通して自己の信じるミームを拡散させる行為
3.絵画、彫刻など、複製不可能な作品を展示する芸術的な行為
4.自分の社会的位置付けである職業や立場などを利用して自分のあり方を示す行為
5.未成年などなら、学生などの身分を以て同様に自分のあり方を示す行為
6.電子的なサイバースペースで自己の意見、立場、画像などを掲示する行為
7.服装や所持品などで自分の趣味や嗜好を示す行為
8.音楽の演奏により、抽象的に思想、感情を表現する行為


ゲームのルール4
どのような自己表現行為であっても、その内容に自分自身の身体以外の人物像が内容として表現される場合がある。この場合は、その作者は、複数存在するかもしれない、その作中人物を自己の似姿であると主張してその作中人物の表現行為を以て自己の表現行為であると主張し得る。
また、他人の作品や作中人物を自己の似姿として用いる場合は、その作品を(その作品が複製可能か否かに関わらず)いわゆる市場で購入すれば、こうした主張も成立する。
なお、その似姿の性別が本人の性別に一致している必然性は、必ずしも、無い。
----------------------------------------------------------------------

 あと、少々余談ですが、著者・宮台真司が「言わなくても当てにできる自明性」がある場合は、それは「指摘」するより「利用」した方がいい、と述べている個所がありましたが、当の「自明性」の在り方そのものを操作する目的がある場合は、その自明性を意図的に指摘することで、「問題」を「一挙にこじれ」させて、従前の自明性自体を骨抜きにするという方法論的な戦略性もアリだと思いました。

今回はこんなところです。

2013年9月21日土曜日

「決定版 感じない男」 森岡正博 ちくま文庫 2013年

 今回は、新書「感じない男」という本の文庫化・増補として出版された「決定版 感じない男」を取り上げたいと思います。ただし、文章が余りに長すぎるので、別サイトのホームページに掲載します。下記のリンクを辿ってください。

スカート姫について(リンク)
スカート姫について(ミラーリンク)

「魔法少女まどか☆マギカ」 新房昭之 監督 TBS 2011年

 今回は、しばらく前に一世を風靡した名作アニメ、「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げます。私がこのアニメを見たのは、本放送が終了してからだいぶ経ってケーブルテレビでの再放送でした。本放送時には、雑誌で見てもあまり目立った印象がなかったので、録画しなかったのです。
 この作品では、ストーリー上、展開に工夫はこらされていますが、おおよその構図としては、五人の魔法少女たちによる「魔女」なる、この世界に厄災をもたらす存在に対しての戦いが描かれます。そして、設定的なキモとなるのが「魔女」という存在の位置づけです。「魔女」とは、「希望」によって魔法を行う魔法少女が、その願いをすべて使い果たした時に、願いを支えてきた希望が反転して絶望に転換し、無限の怨嗟や怨念を吐き出す存在になってしまったもの、と規定されているようです。
 まどかは、当初、いきなり転校してきて、早々に切れ者の才媛ぶりを示すほむらが、なぜ自分に対して執拗に魔法少女になるな、と迫るのか、全く理解できませんでした。しかし、ストーリーが進行するにしたがって、まどかとほむらの因縁が明かされていきます。かつて、ほむらは、魔女に襲われているところをまどかにすんでのところで救われたことがあったのです。しかし、その後、まどかは強力な魔女と一人で戦って死んでしまいました。
 その時までに、まどかが大好きになっていたほむらは、死んでしまったまどかを救いたい、生き返らせたいと望み、自ら時間遡行の能力を持った魔法少女となりました。そして、何度もまどかと一緒に戦って、まどかを殺した強力な魔女を倒そうと試み、そのたびに失敗して何度も時間を遡行して同じ試みを繰り返し続けていたのです。何度もループを繰り返すうちに、ほむらはどんどん強力な魔法少女になりましたが、一向に最終魔女ワルプルギスの夜が倒せません。まどかと協力しても一度も勝てませんでした。そして、実は、この第一話からのストーリーが、ほむらが繰り返してきた多数回のループのうちの最終周の物語であったことが明かされます。このループでは、ほむらはもはやまどかを魔法少女としては当てにせず、彼女を普通の人間にしておいたままで、一人でワルプルギスの夜を倒そうと試みますが、また失敗します。
 結局、この時、ほむらの危機を察知して魔法少女となったまどよって魔女は倒されましたが、まどかは引き換えに存在を失い、時空に存在する概念的な神的存在に成り果ててしまう、というラストを迎えました。
 さて、物語のあらすじは以上のようなものです。この作品は、テーマ的に言って、ありていな言葉でいうなら、「深い」とか「深遠な」とかいった形容が似合いそうな作品です。人間の善悪な観念が、きわめて魅力的なビジュアルを援用して戯画化され、ダイナミズムにあふれたストーリーが展開します。人間の邪悪・悪意の結実を表す「魔女」の斬新というにはあまりにも斬新すぎるビジュアルの数々は衝撃的ですし、これに対抗する者を「魔法少女」という、古くからアニメ作品の中では慣れ親しまれてきた存在として表すというのも、人間の善意とか正義を象徴する者は、実は日常的な、よくあるような者達である、という主張の現前と言えるでしょう。
 しかしながら、本来、どこにでもいる人間にすぎなかった魔法少女たちは、キュウベエ(インキュベーター)という宇宙から来た存在によって、魂を肉体から切り離されてしまうという、「人間」であろうとした場合には「過酷」といえる処置を施されてしまうことによってのみ「魔法」による魔女との戦闘が可能になる、という設定が設けられています。なんとなれば、肉体と精神が合一した状態では、傷つけられる痛みに耐えられないからです。この、「肉体と精神の分離」という制約によって、魔法少女たちの戦いは、次々と悲劇的な結末を迎えてしまいます。
 また、もう一つ重要なコンセプトは、人間の善意と悪意は対になって等量だけ発生するものであり、どちらかだけがどちらかを凌駕することはありえない、と定められています。この設定が、物語内における論理的なバックボーンとして敷かれています。
 この二つの前提によって、魔法少女のさやかは死亡するに至りました。
 まどかとほむらは、結局のところは、この制約をも無視してワルプルギスの夜に挑み続けましたが、結局まどかは、最後の周回でワルプルギスの夜に勝利するに当たっては、自らの「存在を失う」ことによってのみこれを達成できるにとどまり、もはや人間ではあり得ませんでした。
 しかし、鑑賞した感想として、いくつかこれらの作中で提示されている見解には異論を持たざるを得ません。
 第一に、マミの死亡のプロセスが了解不能です。まどかが現れて孤独で亡くなったマミがパワーアップするというのなら話は分かるのですが、なぜそのこと油断(?)によるが敗北・死亡に繋がってしまうかがわからない。
 第二に、さやかの死に関してですが、前提が二つとも疑問です。
 一つは、なぜ「痛みを回避する」ために「精神と肉体を分離する」必要があるのか理解できません。「痛い→行動不能」というのが共感できない。確かに、痛いのに行動すれば、行動終了後にしばらく回復が必要になりますが、それは戦闘が終わってから休憩すればいいのであって、なぜ「戦闘中にリアルタイムで痛い」ことが回避されなくてはならないのかが不明です。これはマミの場合と原理的に同じ問題ですが、痛覚にせよ気の緩みにせよ、戦闘終了後にすればいいのです。
 二つには、善悪が対生成、対消滅するという観念が共有できません。善にしろ悪にしろ、一度誰かの内部に発生したものが雪だるま式に大きくなったりすることはあるでしょうし、場合にとってはその転がり落ちてゆく過程を意図的に止めることもできるでしょう。常に振れ方が双方向に等量である必要はないと思います。
 第三に、杏子が自分のためだけに魔法を使うことを決意した理由は、父親が教会での布教を、自分の理屈を混入させたものに変質させたことで新興宗教じみたものにしてしまい、結果的に信者を失ったのが遠因でした。ただ、この場合、この父親の不当な野心が問題です。いきなり「新しい信仰」を「世を救う」ために発明するなど、一介の教会の神父には度の過ぎる目標です。こういう場合は、まずは堅実に、文字通り単なる「新興宗教」から始めるのが妥当です。その「新興宗教」で当面救える人数など当初はせいぜい数人、十数人といったところでしょうが、そういうところからだんだん拡大して目的に近づいてゆくのが筋というものであって、いかに世を憂いていたといっても、突然「世を救う」というのは、当面の目標としては過大です。
 第四に、まどかが存在を失った理由が不明です。これは第一に、まどかが自分自身の魔女化(=絶望)をキャンセルするために存在を失ってしまいましたがこの理由が不明です。絶望をキャンセルしたら満足感だけが残って終わり、というのなら話は分かるのですが、この作品の理屈には共感できない。この本筋からいうと、「すべての魔法少女の救済」は単に結果的に生じてしまったついでのことであって、まどかの意図は彼女たちの救済には向けられていない以上、因果がフィードバックする理由がない。
 唯一納得できる理屈は、最終周回でまどかに救われたほむらが、その後、作り変えられた世界で魔獣を倒し続けると決意した動機です。ですが、実のところ、そもそもまどかが存在を失う理屈自体が不明な理屈なので、ほむらが魔獣を倒し続けるという状況自体があり得ないはず。
 もちろん、こうした終わり方には、ある種の意図があってのことではあろうとは思います。すなわち、ちかく公開が予定されている劇場版第三作「叛逆の物語」においては、おそらくまどか、またはほむら、あるいはその双方によって、上述のような不自然を否定するための戦いが行われ、最終的にはまどかは単なる人間として世界に帰還し、一方、ほむらはまどかの消滅ゆえに始めた無限の戦いに終止符を打つことになるのでしょう。近く公開される映画に期待したい所です。そして結局、まどかにしても、世界に帰還してしまえば、新しくなった世界で、魔獣と戦ってゆくことになるのでしょう。

「巨神ゴーグ」 安彦良和 監督 テレビ東京 1984年

 今回は、懐かしのアニメと言ってよい作品、「巨神ゴーグ」を取り上げます。
 この作品は、「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインなどで名高い安彦良和がデザインやストーリーなどを全面的に手掛けたことで、一部のファンに根強い人気のある作品と言えるでしょう。だたし、本作は、これが極めて厄介な代物であることを言わねばならないと思います。というのは、オープニングフィルムの映像やその歌詞を始めとして、随所に見られる、表面的な健康そうで爽やかな絵面と、健全な冒険ものであるかのようなストーリーの印象とは裏腹に、非常に淫靡で陰惨な性的志向が背後に隠されていると見えるからです。
 問題なのは、ヒロインのドリス・ウェイブのコスチュームです。彼女は、物語の開始時、ニューヨークで兄のウェイブ博士を手伝っていた時には、短パンのコスチュームを着て自由闊達に振る舞っていました。その姿で空中をワイヤーアクションするようなシーンもあり、その場面は、いかにも「この下半身がきちんと閉じた格好ならば下に地面が無くても大丈夫」というメッセージを放っています。
 しかし、巨大ロボット・ゴーグと共に行く冒険の旅の舞台であるオウストラル島に渡る際に、彼ら兄妹や主人公・田神由宇ら一行は、彼らの島での冒険の案内人・「船長」の手によって用意された「制服」のようなコスチュームに着替えることになり、その結果、ドリスは一行で一人だけミニスカート姿にされてしまいます。
 しかも、彼女の「制服」は、スカート部分と、あとは頭部のサンバイザー以外は、ほぼ由宇とお揃いなのです。由宇はドリスと微妙に色の違うコスチュームで、スカートの代わりに短パンになってる点だけが異なります。また、兄のウェイブ博士も、幾分デザインが異なるものの、ほぼ共通の「制服」を纏いますし、「船長」自身も、基本的に同じデザインの服を、極端に着崩して着こなしています。そして、彼等の共通のデザインの「制服」の中で、ドリスだけがスカートなのです。
 この「スカート以外は基本的に共通」という設定が、ドリスが「スカートである」という部分こそが特に注目すべきポイントであることを指し示す上で、大きな役割を果たしています。また、一行が島で合流したメンバーの少女・サラがホットパンツ姿であることも、このドリスの「苦境」を、更に浮き彫りにする役目を増幅していると言っていいでしょう。
 ですから、そういう目で見ると、実は、冒険の舞台であるオウストラル島とは、ドリスを性的に開発するための装置だったのではないかという疑念が湧いてきます。実際、ドリスは、この、大切なところが開いてしまっているミニスカートのコスチュームで、様々な、性的な意味で「危うい」シチュエーションに置かれます。
 
 例えば、島に渡る途中、船が傾いてパンチラしながら通路を落下したり、島に渡ってからは、このスカート姿で遥かに高いゴーグの頭の上に搭乗したり、また、一行が乗って旅をする戦車・キャリアビーグルの上面ハッチから上半身を乗り出している状態が描写されたりします。(当然車内でラダーに乗っている筈の下半身は…。)しかも、このシーンでは、その状態で、落石からゴーグに守られるなど、極めで象徴的な場面が展開します。
 他にも、敵の一勢力の首領であるレイディに川べりで拷問されてその際に下着が裾から覗いたり、由宇と二人で捕まった際に両手首両足首を縛られて転がされた時に(縛られてはいない)膝を閉じていたりします。
 また、大掛かりな「大道具」的な仕掛けを伴ったシーンとしては、秘密基地内部で、敵・ガイルの襲撃に対して反撃した異星人側の攻撃で、襲撃したガイルの戦闘員が死体となって大量に流れる渓流のごとき流水に、ドリスはスカート姿で足首だけ浸かって立ち尽くしたりします。陰惨な場面の只中、踝まで覆ったブーツが水に浸かって、その上に無防備なスカートが開き、下方に向かってまるで一輪の花のように純白の輪が開いている様は、あまりにも性的なカリカチュアです。
 こうした大仰な場面設定で最も端的なシーンは、異星人基地の最深部で、広大な無重力の空洞に、由宇とドリスがはまってしまったシーンでしょう。この際、二人は、縦に長いこの重力のない広い空洞を、手を繋いで降下してゆくのですが、由宇がドリスの手を取るのを止めた途端に、ドリスは無重力空間で前方に一貫転してしまい、露わになった下着を隠そうと、丸くなってスカートの前を押さえてしまうのです。
 「スカート姿のドリスは、一人ではスカートを押さえる以外には何もできない」という影の主張が、あまりにも露骨に顕在化しているシーンと言ってよいでしょう。このシーンでは、この空間の最下部に着地したドリスは、由宇を前に、「私だって、私だって…!」などと泣き叫ぶ描写すらあるのです。

 しかも、同じ安彦氏がキャラクターデザインをした映画クラッシャージョウのヒロイン・アルフィンの場合は、コスチュームは他のメンバーと同じタイツであるにも関わらず、本人自身が根本的に極端な無能力者でしたが、対してドリスは、ニューヨークでパンツ姿での活躍などの描写も見る限りでは、本来は活発で快活な娘であり、その儚く弱々しい無能さの源泉は、もっぱら、そのあまりに性的な弱味を晒しているスカートのコスチュームに在ると言えそうです。
 そういう意味では、このアニメ「巨神ゴーグ」に於いては、ドリスを巡る扱いに関して余りに手が込んだ場面設定がなされ過ぎている、という感を抱かざるを得ません。ううん、このアニメ、実は設定全部が、ただの変質者の妄想なんじゃ…。

 今回はこんなところです。

「トンデモ本の世界」 と学会・編 宝島社文庫 1999年 (原版は、洋泉社 1995年)

 今回は、昔懐かしい本、「と学会」の「トンデモ本の世界」を取り上げます。
 さて、まず、ちょっと前提のおさらいから入りましょう。
 
 既に明らかにしたように、「最上層で権力が固着した世界」においては、社会構造内部に成り立つ力学的システムが要請する必然によって、社会最下層に於ける抑圧も固定化されます。すると当然明らかになるのは、「いじめ自殺」というものは、なんら「問題」などではなく、むしろシステムが正常に機能した結果生じた「成果」であるということです。
 すなわち、「自殺」という形で人身御供を選抜することが、そもそも最初から目的として存在するからこそ、社会システムがイジメという活動を組織しているわけです。そして、こうした機構によって生産される「自殺」なる産物の用途は、メディアによってこれを流布し、一般の娯楽に供する、ということです。まぁ、テレビの前で報道を聞きかじって憐憫の情に富んだ自分にうぬぼれてみたりする、というような形で、お茶の間に「癒し」を提供する、というような意義があるワケです。
 すると、学校における「教室」とは、こうしたスケープゴートの効率的な選別を可能にするうえで最適化された規模の、子供を囲い込む牢屋のパーティションであるということが言えます。「教室」というものがこの程度の規模であるなら、きわめて効率的にターゲットが選定されるわけです。そういう意味では、結果論とはいえ、系が自律的に生成すると、こうも最適な構造が自然発生するものか、という感嘆は、禁じ得ないところです。
 この場合、当然ですが、「人柱」として選抜されるものは「カタワ」です。あとで述べますが、こういう「スケープゴート選び」で重要なのは、その対象の「異常性」だからです。
 さて、「と学会」の活動とは、いわゆる「トンデモ」とされている、世の中で科学的な常識や自明な前提とされている世界観と明らかに齟齬をきたした主張・内容を有する著作を引き合いにだし、基本的には物笑いの種にする、というスタンスで、次々と紹介してゆく、といったもので、そういう意味では、一種の「吊し上げリンチ」という様相をショーアップ化したものという見方で捉えることができます。
 つまり、先に述べた「権力固着世界」において、このような機能を「装置学校」の水準で社会に実装した娯楽装置ということです。当時の世相から考えても、「権力」が完全に「固着」していた時代の必然として、こうした一種の「社会的装置」が発生して人気を博したことには、必然としての合理的な理由があると考えられます。
 ただし、私自身は、この種の「ショー」にたししては、確かに面白いと感じる一方で、ある種の嫌悪感を感じざるを得ませんでした。その理由は以下のようなものです。
 確かに紹介されている著作物の作者は、科学的理論や世界での共通認識から逸脱するような主張をしているのかも知れません。そういう意味では「知的カタワ」といっていいでしょう。この異常性が、彼らを断罪的・嘲笑的に取り上げることの、正当化への根拠となっているわけです。
 ただし、彼らのそういう「トンデモ」な認識枠組みが成立・固定化してしまった来歴を忖度した場合には、その「カタワな」枠組みにも、一種の内部整合的な歴史的必然が内在しているわけで、それを考慮することなく外部から断罪的・嘲笑的な評価を下すのは、「正しさ」による一方的な暴力であると思われます。そのように感じられたゆえに、「トンデモ」的娯楽、というスタンスに嫌悪感を感じてしまったのです。
 もう少し考えると、これは、一般に「きちがい」を「きちがい」と認定して断罪・排除する理屈に通じるものがあるという事が言えます。
 つまり、「正常な人」が、認識枠組みのネゴシエーション不可能なほどの自分との不連続を相手の中に認定すると、その相手を「きちがい」と断定して直ちにすべてのコミュニケーションを切断して「病院」に閉じ込めるのです。しかし、「正常な人」が「きちがい」の中に「正常性」を認定できないとしても、その「きちがい論理」独自の「経緯としての必然性」を考慮する必要は存在すると考えられますから、「切断」は不当です。
 なぜなら、「正常な人」の認識の構成要素と言えども、あらゆるパラメーターが平均値や中央値を取っているとは限らず、「きちがい」の異常な枠組みと言えども、値の極端な偏倚でしかなくて、それ以上の意味があるわけではないからです。その意味で、両者の齟齬は、相対的でしかありません。
 しかしながら、ある臨界値を超えた認識の偏倚である、とされて一方的に「正しい圏」から排除されてしまった結果「病院」に送致された「きちがい」は、もはや二度と、世界すべてとのコミュニケーションの可能性を絶たれることになります。
 すると、こうした「異常な枠組み」を「常識」と擦り合せるべく調節したり、新たな認識を加えることで枠組みを変化させる機会を絶たれることになります。「切断」は、「きちがい」を、固定化して袋小路に追い込んでしまう結果を招くのです。あるいは、「きちがい」側に、何らかの整合的に正当化できる認識が内包されていたとしても、それを「正常圏」に還流し、これを契機として活用して「正常圏」のあり方をアジャストするというようなことも出来なくなります。
 もちろん、上述した「イジメ」といったものも、「コミュニケーション遮断」による排除の一種ですから、本質的には「きちがい扱いすることで人を追い込む」というシステムの一環です。自殺してしまえばその時点で「現実(=物理的世界そのもの)」から排除されてしまいますから、「追い込み」はそれで終わりですが、この選抜過程で「自殺」にまで至らなかったターゲットの場合は、後々「きちがい」として発現するように、システムが予め被害者の内部に一種の「遅延装置」を組み込んでいる、という捉え方ができます。
 すると、この種の「予約された時限式きちがい」といった手合いは、学校の現場ではなく、卒業後に、いずれ社会で消費されることになります。というのも「きちがい」は社会的娯楽なので、イジメ被害者であれ精神病患者であれ「トンデモ」の作者であれ、共通することは、「正常な」人から見ると面白い、という事であるからです。
 そんなわけで、「きちがい」は、学校、病院、社会など、いろいろなレベルの広さの世界で広く娯楽として楽しまれてきた、という来歴が、この日本の社会には存在していると言えるでしょう。その一つの端的な表れとして、例えば「と学会」の人気というものがあり、連日続く「イジメ報道」というものがある、という観点から事態を把握することも可能だと思います。
 そして、この背後にある共通のメカニズムとして、「きちがいを娯楽として消費する」というものの考え方が横たわっているのです。
 今回は以上です。

「感じない男」 森岡正博 ちくま新書 2005年

 今回は、森岡正博の「感じない男」という本を取り上げたいと思います。
 この本は、確かに著者自身が主張する通り、従来の「客観的な」セクシャリティ論では扱われなかったような角度から、男性のフェチや性的志向の問題に切り込んでいます。その際に参照基準となるのは常に著者自身の実感である点で、過去に積み上げられてきたこうしたジャンルの著作とは一線を画しているといってよいと思います。
 さて前回までに、私がトラウマによって人格が自壊してしまうのを防止するための殆ど無自覚な戦略として、自分の身体上に「少女」を実装してしまう、という適応を行ってしまった、という話をしました。この本の内容には、こうした話題に関連する内容も含まれていて、興味深いものがあります。
 まず、ミニスカートに対するフェテシズム的執着の問題について、そのメカニズムを、著者は、自分の嗜癖を根拠に解剖していきますが、この論点には、実に共感的に納得出来るものがありました。すなわち、「隠す意思」そのものに男は惹かれている、という結論が述べられています。そして、中盤以降では、「ロリコンやフィギュア萌えオタクは、自分が『汚い』『男の体』を抜け出して、少女の体に乗り移りたいのだ」という論旨が展開されます。
 さて、既に前回までに、私は如何にして自分の身体上に「少女」を実装してしまったか、といういきさつについては、ざっと述べてきました。かいつまんで振り返ると、中学時代にイジメに伴って一種の強姦的な被害を被ったために、これが男性性の「去勢」となってメンタルが女性化してしまい、それに引きずられて外見や振る舞いを、その心性に合致させてしまった、というのが、おおよその成り行きでした。
 ゆえに、例えば私のpixivのアカウントを見れば分かるように、私の(イラストなどの)表現上に出現する「視姦される少女」とは、要するに自分のセルフイメージなのです。表現上に自分を展示しているわけです。
 著者・森岡正博は、自分が痴漢に遭った際の経験を引いて、自身が「狙われる体」であることを「耐え難いことであった」と述べています。私の場合も、電車で二度ほど痴漢に遭いましたが、その際には、嫌悪感よりは、自分のメンタル的な快感を満たされる感覚が先に立ってしまい、これらの件では、自身のメンタルが女性化してしまっていることを再確認させられました。
 
 さて、この「偽装身体」を実装するに当たっては、もちろん内部の「小動物」は、偽装を開始した高校入学の時点ではあまりにも小さすぎたため、、外皮の「偽装身体」との間には大きな空隙が出来てしまっていたわけですが、可能な限りこの「小動物」を育成することで「偽装身体」内の空隙を埋め合わせ、最終的には「偽装身体」を撤去して、外装を育成した「小動物」そのもので置換する、というような将来展望を考えていたわけです。「小動物」がそもそも「少女」のミニチュアになっているために、こうした展開が妥当だと構想したということです。
 ちなみに、私の言う「ロボット」は、「おじさん」を、偽装身体の雛型にしていると思われます。ただし、「ロボット」の戦略上の欠点は、内部の「動物」を育成しても、最終的に外装の撤去が困難だということです。「おじさん」と「ミニチュア少女」は形状が異なるために、単純に置換できないのです。
 そして、私が「おじさん」より「少女」の方が、自分の偽装身体として、よりふさわしいと感じている理由は、内面的なイメージに対する親和性が「少女」の方が高いからです。「おじさん」は違和感が大きすぎて実装できないのですね。これはやはり、「強姦被害」によって、自分の男性としての自信を破壊されているのが原因と思われます。
 ともかく、「居方」の佇まいのまとまりをよくして「人間然としたオタク」を目指すなら、「身体偽装戦略」は有効だ、という事は言えると思います。その際、「性的被害」のようなタイプのイジメといったトラウマを抱えている場合は、「偽装身体」としては、「おじさん」よりも「少女」のほうが馴染むはずだ、というのが、私が自分の経験から導いた意見です。
 そして、「偽装身体」として何を使うか決めかねたり、そもそも「身体偽装」に価値を見出さないと、キャラが荒廃して、「ハゲデブ」系統のオタクになってしまうものと思われます。その場合には、こういった「キャラ(というかキャラの不在)」に落ち着いてしまった相手に対しては、周囲はどう対応していいか扱いかねてしまう、という問題が生じると思います。オタクに関連してしばしば取り沙汰されるコミュニケーション能力の欠如の問題は、こうした枠組みから理解することもできると思います。まぁ、最初から孤立を決め込んでそもそもコミュニケーションに関心がない人の場合は、身体偽装というような問題には興味が無いかもしれませんが…。
 そんなわけで、、私は、この本の著者が「不可能な願望」として述べている「少女の体に乗り移る」という行為を、少なくとも自覚のレベルでは現に実行してしまったのです。特に私の場合、自分の顔の造作と、トルソー部分の形状は、自分で自分の体に欲情するには十分なシロモノでした。スネ毛が濃いというのは男性的特徴の残滓として残りましたが、全体のバランスからすると、この点は、私にとっては、それほど大きな痂疲とはなりませんでした。いざとなれば剃ってしまえばいいんだし、と暗黙に考えていたからですね。
 そうやって「少女の体を内側から生き」「自分で自分の体を真に愛し」た結果、生じた事態は、オナニーが「不感症」ではなくなってしまった、という結果でした。よって、著者の言う「射精後の敗北感」という感覚が、共感的には理解できません。ただ、快感の残響が徐々に薄れてゆく過程が、まどろんでいるようで気持ちがいいだけです。
 このように、概念的な意味で「少女に乗り移って」自己完結してしまっているために、少なくとも自分の内的必然としては、「身体」に関する不満というものは、オナニーといった性欲処理の問題まで含めて、特に抱えてはいません。問題が発生したのは、ナルシズムを含めたこのような完結の仕方が、男性という定義の上では完全に異常であるために、この完結している系全体を隠蔽しなくては、という強迫観念が生じたことによります。ただ、今回、ブログを書くという機会にあたって、こうした私に組み込まれている系全体を暴露してしまったため、「身体」に関しては、自覚としては、何も問題点を感じなくなりました。
 著者はまた、「男の不感症」を抑圧していると、反動作用で「権力」を追求してしまうので、「不感症」を自覚することで「やさしさ」を獲得できるはずだ、という論旨も、巻末付近で展開しています。私の場合にも、「やさしさ」を追求する一方で、「権力的なもの」にたいする執着傾向も同時に存在しており、こういう人格構造の矛盾は内包していますが、私の場合は、この問題点は、「不感症」との直接の接点は無いように感じています。
 結論から言うと、私の場合は、この分裂が生じている理由は、自尊感情がうまく機能していないためです。もちろん、この事態もまた、直接的にはイジメが原因で引き起こされたものですがら、セクシャリティの逸脱の件と、問題としては同根なのですが、私は「身体」や「性」の問題は「自分の体」で回収してしまったために、自尊感情の不全・劣等感といったものだけが、単独で残存してしまったのです。
 この問題を辛うじて埋め合わせていたのは、小学校卒業時に、親が私を受験上の理由から強制的に他地区の中学に入学させようとして引っ越した際に、同じクラブ(まんがクラブ)に所属していた友人が私が居なくなると知って泣き出した、という経験でした。この経験が、私でも、一度は他人に心底好かれたことがある、という自信を繋ぎとめる根拠として大きな働きをしていました。
 最近不安定になっている理由の一つが、妄想によって、この経験が親の根回しによって行われた「演出」だったのではないか、と疑い出してしまった、という事なのですが…。まぁ、率直に言って、あんまりそれは信じたくないなぁ、というのが本音ですが…。
 そういう意味では、今後、感情的な安定を確立するためにも、あまり孤立してばかりもいられないのでしょう。誰かに「素」で好かれるようになってゆく必要が、あるのだと思います。
 今回は、こんなところです。

「アクセル・ワールド」 小原正和 監督 TOKYO MX 2012年

 「月刊アニメスタイル」の第一号(「とらドラ!」特集)に載っていたインタビュー記事で、一つ、とても納得できたものがあるのです。それは、インタビュアーの編集長・小黒が「ネガティブな青春を送ってきた作家さんとか、監督さんが、作中で理想化した青春を描くような気持ち悪さがないと思っていたんですが。」と問いかけたのに対して、長井龍雪監督が、「でも、まあ、正直に言えば、大河みたいな女が、毎日やってくるとかって超理想なんですけど……ウォッホン(咳払い)。ま、青春ものですから。」と穏当な回答を返している点です。
 実際、「とらドラ!」という作品を通して見て感じた感想としては、こういう意味で世界観が「超理想」という範疇にあると思うのです。「ほどほどの問題が設定された」「中途半端な楽園」が描かれているような気がするのですね。だから視聴していて、作品の世界観が心地よい一方で、全体を通じて「これでいいのか…?」という感覚が残ってしまうのです。
 なぜそんな感覚が残ったのかよく考えてみると、やはりその理由は、作中で設定された問題の解決が、主人公達の力の及ぶ範囲に確実に収まるように描かれているから、という辺りにありそうな気がします。本来力の及ばない構造的な問題にぶつかった、という意味付けが見えないように思えるということです。だから、全編を通じて観ても、「解決可能な問題が当然解決した」という範疇を出ているようには感じられないのです。
 よって、基本的には、「けいおん!」と同様、理想化されたバーチャルな青春を体感することで、「癒し」の効果を得ることを期待できるタイプの作品と言えると思います。
 これに比べると、同じように学園物の設定を使って「世の中の問題」に若者が向かい合う、というような話を作っている「TARITARI」は、問題設定の位置づけを、もう一工夫してあるように思います。理事長を出すことで、「枠組みと戦っています」という演出を加えている点ですね。
 ただ、紗羽が、かっこよく馬を駆るシーンは、おかしいですね。あの制服のスカートで普通の鞍に乗れるわけないじゃん。まぁ、馬は紗羽になついているのでしょうが、あの恰好では、せいぜい、従順についてくる馬の手綱を握って歩いていくしかない。乗る演出にするなら、あらかじめ制服での騎乗に備えて、横乗り鞍を装着していなくてはおかしい。これに関連して言うと、「とらドラ!」の方で、タイガーが自転車に乗れない件は、元々、自転車そのものに乗れないんじゃなくて、「このロングスカートだから、この自転車(実用車)には乗れない」だとよかったと思います。
 さて、長々と「とらドラ!」があまりに楽園的だ、という話を続けてきましたが、そういう点では、この項のお題のアニメ「アクセル・ワールド」は、「デブのいじめられっ子」を主人公に据えるという事で、以前言及した「ブタ」のリアリティをアニメに持ち込もうという試みをしている点が斬新だと感じました。
 ただし、これでもイジメのフルコースを描写しているとは言い難いでしょう。イジメの描写が、あまりに形式的です。特に最大の難点は、性的暴行の描写がない点です。また、冒頭で、いじめっ子が簡単に作品世界の外部に取り去られてしまう点も非現実的なのではないでしょうか。
 もし、ハルユキがもう少し話数を費やして、加速世界の「ゲーム」が始まってからも、ネチネチと性的暴力も含めていたぶられ、黒雪姫先輩がずっとそれを横で見ていて、最後に先輩がえげつない手口でいじめっ子を陥れる、というように、もう少し尺を費やしてくれたら、もう少し納得感のある感じになっていた気はします。
 自分自身の私事について言うなら、もともと私自身のセクシャリティがおかしくなった原因は、中学時代にイジメの一環として行われた、一種の性的暴行です。その「性的暴行」の具体的内容は、「羽交い絞めにされてズボンとパンツを引きずりおろされ、教室の真ん中でクラス全員を前に萎縮したちんこを笑いものにされる」というものでした。
 これだけでも大きなトラウマですが、更にそのあともう一度、今度はトイレに行ったときにとっ捕まって、同じようなことを少人数でもう一遍やられました。あれはダメ押しになりましたね…。
 あとは、「単なる暴力」に関しては、やっぱり修学旅行の時に、広島で新幹線を降りてから宮島島内へ渡り、さらに宿にかけて、道を、びくびくしながら一日中歩き回った挙句、その夜になって、到着した宿で、廊下を歩いていたところを突然、不良部屋に引っ張り込まれて、殴る蹴るの集団袋叩きに遭ったのが印象に残っています。あの時は、「いくら用心してもやっぱり最後はこうなっちゃうのか…」と思って、なんかすごくやり切れなかったですね…。「所詮、自分は他人から見ればただのオモチャなのか」と思って悲しかったのも事実です。
 まぁ、ともかく、私の場合、
  性的暴行
 →「犯される者」という自己認識がトラウマによって強要される
 →メンタルが「少女」化
 →外見がメンタルに引きずられて不可避的に変化
 →自分の可愛さが再帰的に自分に入力された結果ナルシズムの循環が暴走
 →ますます外見の変化が加速
というような一連の過程によって、人格、というか、実存そのものがおかしくなっているのです。この事態は、「思い込みが具現化する」という現象の、一つの例示と言うことも出来るでしょう。
 私見ですが、再三言及した、私の言ういわゆる「七五三ロボット」が体の持ちようとして現れてしまう理由の、少なくとも一つは、多分、こうした種類の過去の経験の抑圧によっているのではないかと思っています。性的暴行を否認するために、「おじさん」という、典型的な「一人前の男」の外殻を着込んで、本体である「虐待された小動物」を隠蔽するわけです。
 逆に、この種の経験を、絶対的に抑圧するとまでは思い詰めていない場合には、少女化したメンタルを肯定してしまう結果、ナルシズムが循環して体の持ちよう自体が少女化してしまう。「小動物」が着ぐるみを着込んでいる点では「ロボット」と変わりはありませんが、外殻の表面に、本体である「小動物」の生体的な実感が漏出するような実装になっているのではないかと思うわけです。
 たぶん、そんな、いわば「身体偽装」のメカニズムというものが、あるように思います。私が、今、こういう酷い話を割と平気で言えてしまうのは、その頃から、取り敢えずの自分の在り方がそうした「身体偽装」であったとしても、いずれ、その先に色々な経験を積み上げて実際に素敵な人になれたなら、そんな昔の話も、きっと平気で話せるようになるのだろうな、と思っていたからなのだと思います。今は、ようやくすこし、そういう所に近づいてきたようです。でも、まだ先は長そうですけれどね…。
 今回はこんなところです。