これは本ブログ運用上の本義である…先行する作品や論述へのリアクションな感想文じみた素人文章を垂れ流してゆく場的枠組み…という趣旨からずれるのですが…、現今の、女や…スカート恥女としての女の恥ドライヴ死牢獄といった女奴隷拘束事態への問題関心から惹起され生起したとも思われる…一連の陰謀論的(?)騒乱事態への…一応の個人的見解が纏まったので、例外的に他のWeb上アカウントでのリンク設置に加えて…ここにも文書をリンクで貼っておきます…。ご照覧いただければ幸いです…。
ドリルちんこ(事実上虫垂含意男性器)の単純初期攻撃力値の意味意義から演繹し至るスカート恥問題論点帰結
真予定調和共和国 ~長野郁の読書・映像作品等感想・論説ブログ~
2018年9月22日土曜日
2018年6月6日水曜日
「スカート」 榎本ナリコ 著 小学館 2002年
●本稿は宇図久磨理 氏より掲載を委託されたのでこちらのブログに投稿します…。:鹿羽伊久
前から言及が必要だとは思っていた、榎本ナリコ先生の「スカート」ってマンガがありますね…。無論、タイトルからしても、ある意味、ある種の事態におけるキーアイテム的な書物であることも間違いは無いワケですが…。
勿論、この書物の中に述べられ描かれているストーリーを通じて、ある種の男女概念に関する固定観念が固定しているが故の諸問題を前にして、男女数人のいろいろな人たちが、様々な問題意識や葛藤を以って右往左往しまた逡巡する、といった有り様が描かれているというのはよく認識できることですし、本書の登場人物のように、その「ハードル」とヤラの前で、かなり難儀な逡巡・躊躇のような事態に入り込んで、そしてそこで、そういう同じような当事者が何人も集まっても、結局はぐるぐる回り合うような結果にもなって行ったりして、なかなか真っ直ぐにハードルとやらを超える方向性へ向かって行かない場合もあったりする、という話もよく認識できます。まぁ、描かれた時期にだいぶ相違はあるモノの、後年の、アニメ化もされた「クズの本懐」にややテイストが似ているトコロもある作品世界とも見えます。尤も、この二作品には同じ種類の逡巡や葛藤が描かれているとはいっても、後者の方がかなり(少なくともアニメ版のラストでは)問題を容易に超克してしまった、といか、まぁ、まともに問題に突っ込んでいって向こうへ抜け出して(アニメ版の)ラストシーンを迎えたような印象はあって、一方の本書「スカート」は巻末のエンディングを迎えても、主要人物たちの自己認識があまり変わったようにも見えないこともあって、どうも煮え切らない読後感は残ります。
ただ、私にとっての問題は、もう一つ別の処にもある。これは要するに、この「スカート」で描かれた作中人物の棲む世界と云うのは、基本的に、いわゆる現実、とか社会生活、と呼ばれているような水準に(どうにかこうにかであれ)キャッチアップ出来て暮らしている人たちの物語であって、そういう水準で生活して行った場合に出会う、その水準なりの固有の、例えば規範との衝突などの問題意識から話が展開する作品世界である、という事、それが私には大きく目に映る。この意味では、完全にある時期以降そういう現実、とか、実社会、の水準から脱落した埒外の者として暮らした時期の長い私から見ると、やはり別の世界、と云うか、少なくとも異なる界隈で生活する人たちの物語であって、道具立てがソモソモ根本的に異なる世界で生起する顛末が描かれている以上は、やはりある種のファンタジーとして読めてしまう。というか、私が今持つ生のリアリティーを基準にこれを読むなら、ファンタジーとして解釈するしか読解の方法が無いワケです。
無論、これをファンタジー、として読んでしまう私のような人々の方が、むしろ(実)世界から見ると(負の/下方の)ファンタジーのような、一種、社会の圏外に生息しているからこそ、その位置からは、この書の内容の作品世界について、イワバ、上方の極楽内に棲む仙人の男女にもやはり土人同様の悩みらしきモノは有るのかなぁ…?、的な読み方になってしまうワケで、当の上方の極楽、というその場所から、土人たちの世界や、或いは多分今私がいる、土人からも生き埋めの生贄になりかねない更に井戸の底の方を下方に睥睨すれば、相対的には、多分逆の感想が出てくる。
もっとも、土人や、更に土人が呪術の為に生き埋めにせんとしているようなこの私などのような者がリアリティだと思っている世界には、実は、そもそも物語を描く上でのその世界内の固有の利用可能な道具立て自体が最初から殆ど存在しないという固有の問題もある。これも当然の話で、典型的なある種の土人の生息する彼/彼女の部屋(或いは独房)である、まぁ、ある種の病院の居室といった場所には、せいぜい、その住空間には壁とカーテンとベッドくらいしかなくて、何やら現実界の住人の住居にありがちな洒落た内装や、好みであつらえて、或いは外へ出て食べられる上等な食事も無く、あとはまぁ、娯楽室に備え付けの、冊数的には乏しい書物や雑誌程度が、そこから垣間見ることの可能な外部世界についての情報の総体であり、その程度がそういう者の持ち得る視野の広さの最大値であって関の山なのだ、というトコロでしょう。
或いは近よく居るという、そろそろいい歳に差し掛かりつつあるという者も多いらしい引き籠りとか無職ニート的な人たちの現実的な居住世界とは? まぁ、病室が自分の自室に取り替わる以上はその部屋内部の配置や物品選択、デザインなどの基本的な自由は部屋の住人自体が握れる場合もあるわけですが(とはいえ、実際には同居する親などの家族にこの権限も牛耳されている場合も多く有りそうではありますが)、どっちにせよ、その部屋に棲む内部の住人にとっては、部屋の内部状況程度が視認できる世界の全部であって、部屋の外部から齎される外界の情報が極めて乏しく限られている、という意味では共通点がある。他にもこの種の、下方の埒外圏域に棲む土人、とでも言えそうなタイプの生を送る現代のこの国の一般的に見られる生活世界の中の住人は幾つかのタイプはあるのかも知れませんが、大体、その生活世界が、彼/彼女自身が一人だけで棲む自室程度に限定されていて極度に狭いとか、その部屋の外からの情報源が極めて限られ、住人は外界の事情に極度に疎い、ナドの共通項はありそうです。
それゆえ、こうした概念的な独居房のような場所に、成育歴上のある重要な時期などに於いて(自分が望んだかどうかはともかく)留め置かれて暮らしたような経緯を出自として持つ成人などの人々は、しばしば長じても、(年齢的に)成人したゆえに独房から解放されて放り出された(一般の大人と云われるような人々が棲む)世界の中では、その世界と云うモノの成り立ちの意味論とか、或いは概略的な見取り図・地形略図ナドについての情報が不全であることが多く、いろいろ世渡り上の困難や問題を抱える場合も多いのでは無いでしょうか?
或いはまた、こうしたタイプの出自の者が、マンガなどのフィクションの創作を志した場合、例えば、本稿の主題だったマンガ「スカート」のような、現実(の社会生活)世界での生活・営為に道具立てや世界観の典拠を求めたタイプの作品を創る事が困難である場合も多々あるために、時々、極端な空中のファンタジーのような作品世界を、世界自体のフルセットソノモノについて、何も無いところから完全に「発明」してしまう場合と云うのも、少なくはないと考えています。しばしば「オタク的」とされるテイストの作品にこの種の世界設定が頻出するというある種のバイアスは。多分、こういうタイプの作品を愛好する人たちの出自が、上述のような社会的ポジションの出自を持つ者たちと多分に層として重なりがち、という事情とも関係がありそうに思う。
また、近年では増加する傾向にあるようにも見える、オタク的とされる作品の主要部分を担う、学校・学園を舞台設定として持つ作品も、ある意味、その延長にあると捉えて良いように思います。要は、(現役の生徒・学生はもちろん)成人の社会人、と呼ばれる年齢層の人たちでさえ、その社会人、なる生活圏で前提として、その世界の(一般的的な「主流派」の)住人たちには共有されている規範や常識の一般的コードにキャッチアップ・追随出来ていないために、その年齢時点でも、多分、自己の内部に生のリアリティの根拠が過去の学校・学園の記憶しか存在しない。それゆえに、そういった作者たちはそういう作品を描き、また同様の出自の者たちがそこに読者として群がってしまう、という、事態は総じて、そういう事のように私には見えるのです。
まぁ、纏めてしまうと、この「スカート」と云う作品、総じて、私が認識し、今この場所で体感として持っている生の実感・生活感覚や、或いは世界に関する皮膚感覚的把握ナドとは、まったく縁遠い、異なる(概念的な)場所である、現実世界、という場所を舞台にした物語である、と、そう捉えられる、という把握になります。要は、読み物として興味深く、意味も分かるし、価値もあると認識はできるが、私にとっての実生活の上に、何かの有用な情報や価値観・意義ナドをもたらしてくれるタイプの書物ではないし、それゆえ、作者がその中に、想定する読者への何らかのメッセージ的な想いをも入れ込んで描き上げたのだとしても、そのメッセージの宛てられた対象者の中には、明らかに私は含まれていない。そのメッセージの宛先は、多分、この作者と同じ種類の人たち、つまり、現実の中にキャッチアップしつつ、その水準で日々浮き沈みしてリアルを何とか凌いで、あるいは凌げて、それで生きている、生きていける、そういう、作者のイワバ同輩たちに向けられているのだと思います。そういう人たちには、ある種の導きや考えの整理の基盤として有用な意味を為す書物たりえる力は持っていそうですが、私は、棲息世界の前提や道具立てが全く異なる空間を生きている以上、そこから自分の実際の生の中へ援用できる価値を引き出す術はなく、要するに、別世界の書物、或いは、別の宗派の経典の類としか認識は出来ない、と云うような事です…。
まぁ、多分、こういう、現実世界とか、そこでの生活にキャッチアップ出来てしまうタイプの人が作者なのですから、その当の作者自身が即ちキャッチアップ出来てる人、という人物像の人間なのだろうな、という事も、書物の向こう側に透けて見える気もします…。多分、ドッカのマンガ中に一種の戯画として登場した類型的な描写も、この作品などを具体例に取って見てしまうと、まぁ実は当たらずとはいえ遠からずなのではないか、ナドとも想像出来てしまいます…。例えば、その某マンガ作品中では、素晴らしいマンガを描く素晴らしい眼鏡美人の女性漫画家を目の当たりにして、主人公が「オマエは完璧超人か!?」ナドと癇癪を起していましたが、まぁ、その作中の主人公と云うのが上述の独居房的世界の出自の人物として措定されているのも描写からみて間違いなさそうに見える辺りから、この種の下方の土人的な者が、現実キャッチアップレベルの作品を目の当たりにしたときに、作品に対してどんな事を感じ、また言いがちなのか。或いは更にまた、その作者がキャッチアップレベルの生活空間構成上の文化的・文脈的資材の十分な豊富さでの持ち主であるような場合には、独居房的世界の出自者からは、その者がどう見えて、どういった感情論で把握されがちなのか? そう云った諸問題も少し垣間見えそうです…。
多分、このマンガ作品「スカート」の作者・榎本ナリコ氏も、多分にこの種の完璧超人といった種類の人種か(多分女性なので、それこそ上で戯画化されていたような完璧眼鏡美人の類?)、まぁ、それにある程度近いタイプの、謂わば上位種族、に位置するような人物なんだろうな…、とは、何となく想像できますね…。つまり、私とはちょっと出自的トライヴの異なる、まぁ、あまり共通項が無いだろうと想像できるタイプの人物だという事で、ですから、個人的に、作者に対する親近感とかシンパシーと云った感情や、感覚的な距離感(の近さ)と云った想いのようなモノは(その作品としての一種の読後感の豊饒さとは裏腹に)、全く湧き上がってはこなかった、と云うのが、読後の率直な思いと云ったところです。それも結局、作品が、私にとっての棲息世界とは遥かに縁遠い、どこか違う場所を舞台にした物語であり、また、作者、或いは作中人物たちの在住する(現実の社会的)世界という、その世界観と云うモノも、私の棲息世界とは遥かにかけ離れたファンタジックな仙境を描いたモノなのだな、と云う、その実感だけが、紙面から伝わって来るしかないのです…。
前から言及が必要だとは思っていた、榎本ナリコ先生の「スカート」ってマンガがありますね…。無論、タイトルからしても、ある意味、ある種の事態におけるキーアイテム的な書物であることも間違いは無いワケですが…。
勿論、この書物の中に述べられ描かれているストーリーを通じて、ある種の男女概念に関する固定観念が固定しているが故の諸問題を前にして、男女数人のいろいろな人たちが、様々な問題意識や葛藤を以って右往左往しまた逡巡する、といった有り様が描かれているというのはよく認識できることですし、本書の登場人物のように、その「ハードル」とヤラの前で、かなり難儀な逡巡・躊躇のような事態に入り込んで、そしてそこで、そういう同じような当事者が何人も集まっても、結局はぐるぐる回り合うような結果にもなって行ったりして、なかなか真っ直ぐにハードルとやらを超える方向性へ向かって行かない場合もあったりする、という話もよく認識できます。まぁ、描かれた時期にだいぶ相違はあるモノの、後年の、アニメ化もされた「クズの本懐」にややテイストが似ているトコロもある作品世界とも見えます。尤も、この二作品には同じ種類の逡巡や葛藤が描かれているとはいっても、後者の方がかなり(少なくともアニメ版のラストでは)問題を容易に超克してしまった、といか、まぁ、まともに問題に突っ込んでいって向こうへ抜け出して(アニメ版の)ラストシーンを迎えたような印象はあって、一方の本書「スカート」は巻末のエンディングを迎えても、主要人物たちの自己認識があまり変わったようにも見えないこともあって、どうも煮え切らない読後感は残ります。
ただ、私にとっての問題は、もう一つ別の処にもある。これは要するに、この「スカート」で描かれた作中人物の棲む世界と云うのは、基本的に、いわゆる現実、とか社会生活、と呼ばれているような水準に(どうにかこうにかであれ)キャッチアップ出来て暮らしている人たちの物語であって、そういう水準で生活して行った場合に出会う、その水準なりの固有の、例えば規範との衝突などの問題意識から話が展開する作品世界である、という事、それが私には大きく目に映る。この意味では、完全にある時期以降そういう現実、とか、実社会、の水準から脱落した埒外の者として暮らした時期の長い私から見ると、やはり別の世界、と云うか、少なくとも異なる界隈で生活する人たちの物語であって、道具立てがソモソモ根本的に異なる世界で生起する顛末が描かれている以上は、やはりある種のファンタジーとして読めてしまう。というか、私が今持つ生のリアリティーを基準にこれを読むなら、ファンタジーとして解釈するしか読解の方法が無いワケです。
無論、これをファンタジー、として読んでしまう私のような人々の方が、むしろ(実)世界から見ると(負の/下方の)ファンタジーのような、一種、社会の圏外に生息しているからこそ、その位置からは、この書の内容の作品世界について、イワバ、上方の極楽内に棲む仙人の男女にもやはり土人同様の悩みらしきモノは有るのかなぁ…?、的な読み方になってしまうワケで、当の上方の極楽、というその場所から、土人たちの世界や、或いは多分今私がいる、土人からも生き埋めの生贄になりかねない更に井戸の底の方を下方に睥睨すれば、相対的には、多分逆の感想が出てくる。
もっとも、土人や、更に土人が呪術の為に生き埋めにせんとしているようなこの私などのような者がリアリティだと思っている世界には、実は、そもそも物語を描く上でのその世界内の固有の利用可能な道具立て自体が最初から殆ど存在しないという固有の問題もある。これも当然の話で、典型的なある種の土人の生息する彼/彼女の部屋(或いは独房)である、まぁ、ある種の病院の居室といった場所には、せいぜい、その住空間には壁とカーテンとベッドくらいしかなくて、何やら現実界の住人の住居にありがちな洒落た内装や、好みであつらえて、或いは外へ出て食べられる上等な食事も無く、あとはまぁ、娯楽室に備え付けの、冊数的には乏しい書物や雑誌程度が、そこから垣間見ることの可能な外部世界についての情報の総体であり、その程度がそういう者の持ち得る視野の広さの最大値であって関の山なのだ、というトコロでしょう。
或いは近よく居るという、そろそろいい歳に差し掛かりつつあるという者も多いらしい引き籠りとか無職ニート的な人たちの現実的な居住世界とは? まぁ、病室が自分の自室に取り替わる以上はその部屋内部の配置や物品選択、デザインなどの基本的な自由は部屋の住人自体が握れる場合もあるわけですが(とはいえ、実際には同居する親などの家族にこの権限も牛耳されている場合も多く有りそうではありますが)、どっちにせよ、その部屋に棲む内部の住人にとっては、部屋の内部状況程度が視認できる世界の全部であって、部屋の外部から齎される外界の情報が極めて乏しく限られている、という意味では共通点がある。他にもこの種の、下方の埒外圏域に棲む土人、とでも言えそうなタイプの生を送る現代のこの国の一般的に見られる生活世界の中の住人は幾つかのタイプはあるのかも知れませんが、大体、その生活世界が、彼/彼女自身が一人だけで棲む自室程度に限定されていて極度に狭いとか、その部屋の外からの情報源が極めて限られ、住人は外界の事情に極度に疎い、ナドの共通項はありそうです。
それゆえ、こうした概念的な独居房のような場所に、成育歴上のある重要な時期などに於いて(自分が望んだかどうかはともかく)留め置かれて暮らしたような経緯を出自として持つ成人などの人々は、しばしば長じても、(年齢的に)成人したゆえに独房から解放されて放り出された(一般の大人と云われるような人々が棲む)世界の中では、その世界と云うモノの成り立ちの意味論とか、或いは概略的な見取り図・地形略図ナドについての情報が不全であることが多く、いろいろ世渡り上の困難や問題を抱える場合も多いのでは無いでしょうか?
或いはまた、こうしたタイプの出自の者が、マンガなどのフィクションの創作を志した場合、例えば、本稿の主題だったマンガ「スカート」のような、現実(の社会生活)世界での生活・営為に道具立てや世界観の典拠を求めたタイプの作品を創る事が困難である場合も多々あるために、時々、極端な空中のファンタジーのような作品世界を、世界自体のフルセットソノモノについて、何も無いところから完全に「発明」してしまう場合と云うのも、少なくはないと考えています。しばしば「オタク的」とされるテイストの作品にこの種の世界設定が頻出するというある種のバイアスは。多分、こういうタイプの作品を愛好する人たちの出自が、上述のような社会的ポジションの出自を持つ者たちと多分に層として重なりがち、という事情とも関係がありそうに思う。
また、近年では増加する傾向にあるようにも見える、オタク的とされる作品の主要部分を担う、学校・学園を舞台設定として持つ作品も、ある意味、その延長にあると捉えて良いように思います。要は、(現役の生徒・学生はもちろん)成人の社会人、と呼ばれる年齢層の人たちでさえ、その社会人、なる生活圏で前提として、その世界の(一般的的な「主流派」の)住人たちには共有されている規範や常識の一般的コードにキャッチアップ・追随出来ていないために、その年齢時点でも、多分、自己の内部に生のリアリティの根拠が過去の学校・学園の記憶しか存在しない。それゆえに、そういった作者たちはそういう作品を描き、また同様の出自の者たちがそこに読者として群がってしまう、という、事態は総じて、そういう事のように私には見えるのです。
まぁ、纏めてしまうと、この「スカート」と云う作品、総じて、私が認識し、今この場所で体感として持っている生の実感・生活感覚や、或いは世界に関する皮膚感覚的把握ナドとは、まったく縁遠い、異なる(概念的な)場所である、現実世界、という場所を舞台にした物語である、と、そう捉えられる、という把握になります。要は、読み物として興味深く、意味も分かるし、価値もあると認識はできるが、私にとっての実生活の上に、何かの有用な情報や価値観・意義ナドをもたらしてくれるタイプの書物ではないし、それゆえ、作者がその中に、想定する読者への何らかのメッセージ的な想いをも入れ込んで描き上げたのだとしても、そのメッセージの宛てられた対象者の中には、明らかに私は含まれていない。そのメッセージの宛先は、多分、この作者と同じ種類の人たち、つまり、現実の中にキャッチアップしつつ、その水準で日々浮き沈みしてリアルを何とか凌いで、あるいは凌げて、それで生きている、生きていける、そういう、作者のイワバ同輩たちに向けられているのだと思います。そういう人たちには、ある種の導きや考えの整理の基盤として有用な意味を為す書物たりえる力は持っていそうですが、私は、棲息世界の前提や道具立てが全く異なる空間を生きている以上、そこから自分の実際の生の中へ援用できる価値を引き出す術はなく、要するに、別世界の書物、或いは、別の宗派の経典の類としか認識は出来ない、と云うような事です…。
まぁ、多分、こういう、現実世界とか、そこでの生活にキャッチアップ出来てしまうタイプの人が作者なのですから、その当の作者自身が即ちキャッチアップ出来てる人、という人物像の人間なのだろうな、という事も、書物の向こう側に透けて見える気もします…。多分、ドッカのマンガ中に一種の戯画として登場した類型的な描写も、この作品などを具体例に取って見てしまうと、まぁ実は当たらずとはいえ遠からずなのではないか、ナドとも想像出来てしまいます…。例えば、その某マンガ作品中では、素晴らしいマンガを描く素晴らしい眼鏡美人の女性漫画家を目の当たりにして、主人公が「オマエは完璧超人か!?」ナドと癇癪を起していましたが、まぁ、その作中の主人公と云うのが上述の独居房的世界の出自の人物として措定されているのも描写からみて間違いなさそうに見える辺りから、この種の下方の土人的な者が、現実キャッチアップレベルの作品を目の当たりにしたときに、作品に対してどんな事を感じ、また言いがちなのか。或いは更にまた、その作者がキャッチアップレベルの生活空間構成上の文化的・文脈的資材の十分な豊富さでの持ち主であるような場合には、独居房的世界の出自者からは、その者がどう見えて、どういった感情論で把握されがちなのか? そう云った諸問題も少し垣間見えそうです…。
多分、このマンガ作品「スカート」の作者・榎本ナリコ氏も、多分にこの種の完璧超人といった種類の人種か(多分女性なので、それこそ上で戯画化されていたような完璧眼鏡美人の類?)、まぁ、それにある程度近いタイプの、謂わば上位種族、に位置するような人物なんだろうな…、とは、何となく想像できますね…。つまり、私とはちょっと出自的トライヴの異なる、まぁ、あまり共通項が無いだろうと想像できるタイプの人物だという事で、ですから、個人的に、作者に対する親近感とかシンパシーと云った感情や、感覚的な距離感(の近さ)と云った想いのようなモノは(その作品としての一種の読後感の豊饒さとは裏腹に)、全く湧き上がってはこなかった、と云うのが、読後の率直な思いと云ったところです。それも結局、作品が、私にとっての棲息世界とは遥かに縁遠い、どこか違う場所を舞台にした物語であり、また、作者、或いは作中人物たちの在住する(現実の社会的)世界という、その世界観と云うモノも、私の棲息世界とは遥かにかけ離れたファンタジックな仙境を描いたモノなのだな、と云う、その実感だけが、紙面から伝わって来るしかないのです…。
2016年11月29日火曜日
「人類のやっかいな遺産」 ニコラス・ウェイド 著 山形浩生、守岡桜 訳 晶文社 2016年 / 「元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたか」 ジョナサン・マークス 著 長野敬、長野郁 訳 青土社 2016年
今回は、「人類のやっかいな遺産」及び「元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたか」の2冊の書籍に関する論評です。但し、この2冊は、私自身の訳書(前者は途中まで訳したものの出版が流れてしまった流産企画ですが)である点、また、他のリンク元からも参照したいこともあって、外部リンクの独立サイトとします。本文は、以下のリンクを辿ってください。
人類のやっかいな遺産 及び 元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたのか
人類のやっかいな遺産 及び 元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたのか
2015年7月26日日曜日
「ラブライブ!」 京極尚彦 監督 TOKYO MX 一期2013年、二期2014年
アニメ版ラブライブ!が大盛況である。2015年7月15日現在では、劇場版は、けいおん!、やまどか☆マギカ、を越えるほどの興行収入に達してまだ伸びているらしい。ただ、私は劇場版は未見なので、ここでは二期に亘って放映されたアニメのテレビシリーズからわかる内容について触れてみたいと思う。(その後、2016年3月30日に劇場版をビデオ視聴したが、言いたいことは変わらなかったので、本稿の内容はそのままとする。)
ラブライブに登場するμ'sの9人の中でも、特に注目すべきはにこに―こと矢澤にこであろう。このキャラクターの特徴としては、極度に自分のキャラ建ての方法論や戦略性に関してうるさくて、極めて明文的、自覚的に自己のキャラ建てを行っているという点である。(あの「にっこにっこにー」である。)この自意識の饒舌さは、ある意味でいわゆる「ぶりっ子」にも相通づる。両者とも自分のキャラ建てに関して明確に戦略的な振る舞いをしており、極めて自覚的であるからである。しかし、にこは「ぶって」いる、すなわちフリをしているワケではない。ここが、極めてこのキャラクターの一種現代的な特徴と言える。
この現代的特徴とは、平たく言うと、要するに「いい奴」なのである。アニメキャラクターであるがゆえにいささか図式的に単純化されているという事情を差し引いても、μ'sの残り8人は、少々自意識不足のきらいのある、単純というか、単細胞な所のあるキャラクターだ。対照的に、にこは極端に大量の(過剰の、ではない)自意識と自己戦略性を持った、ともすれば頭でっかちとも取られかねないようなキャラクターである。しかし、頭でっかち特有の嫌味さがない。それは、にこは戦略的振る舞いをしていると言っても、べつに「フリをしている」ワケではないからである。
フリをしているとはどういう事であろうか。それは、自己の戦略性を自覚してしまっている自意識が、当の戦略性の外部にくくり出されて、いわば自分を「外」(実はそれもまた内部なのだが)から観察している状態になっているということである。言い方を変えれば、自分の自意識が、当該の自分の戦略性を体得的には信じていないということだ。
その結果、自分の戦略的な身体的振る舞いを自分の自意識は信じていないという乖離が生じる。これと対照的な在り方は、従来は、いわゆる「バカ」とされてきた。「バカ」とは、自分の振る舞いに明文的、自覚的な戦略性を思考のレベルでは考えず、それをもっぱら条件反射に任せているタイプの人格である。対して、「リコウ」は、自分で自分を観察する知性を持つがゆえに、自分では自分の振る舞いを信じていないのが当然と、従前はされてきた。
にこが独特なのは、この従来的な二項対立のどちらにも当て嵌まらないという点だ。にこは極めて大量の戦略性を以て自分の振る舞いを律しており、当然フィードバックして自分を自分で観察もしているが、にもかかわらず(従来型の「リコウ」とは異なって)自分で建てたキャラクターの意味を体得的に信じ、それを振る舞いを通じて実践しているのである。この点で、「バカ」と同様に、頭のレベルと身体的振る舞いのレベルで生理的な指向性が乖離しておらず、一致しているのである。この結果、自分で自分を信じていないことから来る、従来型「リコウ」特有の嫌味さが無く、どちらかというと「バカ」の傾向がある残り8人と全く選ぶところなく、爽やかないい奴なのである。
にこの視点でものを考えてみるなら、むろん、そのメタレベルの戦略的思考能力を有しているがゆえに、残り8人について、何かと当人が気付かないような点にまで発見を行うことも多いだろう。しかし、にこのメタレベルというものは、オブジェクトレベルの外部にあるものではなく、オブジェクトレベルの意味や概念を整理するために生じた仮設作業台のようなもので、基本的にはオブジェクトレベルと地続きの基板上に立脚している。それゆえ、他人に関して何か気が付いたとしても、それは、一方的に(外部から)見破ると言った一方的な権力的な視点では有り得ず、ただ、他者について人よりよく気が付いているという量的な多寡に過ぎないことになり、その意味で「バカ」ともタメというか、対等なのである。(従来型)「リコウ」特有の、根拠が自意識構造にしか立脚していない、理不尽な権力性が無いのだ。
ラブライブ!に関しては、多く、いわゆる「萌え」消費的な観点から現象が捉えられがちで、当のファンですらその「好き」の意味を十全に言語的に分節化できず、「ラブライバー」を自称することでアイデンティティを示し、外部に対しては自己主張を、「ラブライバー」内部に対しては連帯を求めたがる傾向にあるように見える。それを一概に悪いと言わないが、その「ラブライバーを自称し、そのアイデンティティベースの生活を行う」ことの意味を自覚的に整理し、その上で、その整理した戦略性の上に乗って、効率的にファン生活を行えば、この作品の鑑賞からより多くの果実を引き出すことも出来るのではないだろうか。
まぁ、平たく言ってしまうと、にこの「自意識がいっぱいあるめんどくさい奴なのにいい奴」という人格類型や、もっというと人生観・生き方のようなものに共鳴し、そこから多くの教訓や学びを引き出すことも出来るのではないかと言いたいのである。
今回の考察では、もっぱら成立したキャラクターの「人格」に着目する立場から論じ、作品の成立過程における各スタッフの寄与や功績の分析のようなものは行っていない。これは一つには私がそうしたスタッフワークの各論について通じていないという資質的な限界があるが、もう一つには、視聴者の立場から完成した作品を論じる際には一つの在り方として成立した作品を前提にそこから見えてくるものを論じるのも「アリ」だという主張でもある。
作品論という時にスタッフワークを中心に着目し、各スタッフの寄与について分析したがる(オタクとは異なる)古いタイプの「アニメファン」には物足りない考察だったかもしれない点はご容赦いただきたい。
ラブライブに登場するμ'sの9人の中でも、特に注目すべきはにこに―こと矢澤にこであろう。このキャラクターの特徴としては、極度に自分のキャラ建ての方法論や戦略性に関してうるさくて、極めて明文的、自覚的に自己のキャラ建てを行っているという点である。(あの「にっこにっこにー」である。)この自意識の饒舌さは、ある意味でいわゆる「ぶりっ子」にも相通づる。両者とも自分のキャラ建てに関して明確に戦略的な振る舞いをしており、極めて自覚的であるからである。しかし、にこは「ぶって」いる、すなわちフリをしているワケではない。ここが、極めてこのキャラクターの一種現代的な特徴と言える。
この現代的特徴とは、平たく言うと、要するに「いい奴」なのである。アニメキャラクターであるがゆえにいささか図式的に単純化されているという事情を差し引いても、μ'sの残り8人は、少々自意識不足のきらいのある、単純というか、単細胞な所のあるキャラクターだ。対照的に、にこは極端に大量の(過剰の、ではない)自意識と自己戦略性を持った、ともすれば頭でっかちとも取られかねないようなキャラクターである。しかし、頭でっかち特有の嫌味さがない。それは、にこは戦略的振る舞いをしていると言っても、べつに「フリをしている」ワケではないからである。
フリをしているとはどういう事であろうか。それは、自己の戦略性を自覚してしまっている自意識が、当の戦略性の外部にくくり出されて、いわば自分を「外」(実はそれもまた内部なのだが)から観察している状態になっているということである。言い方を変えれば、自分の自意識が、当該の自分の戦略性を体得的には信じていないということだ。
その結果、自分の戦略的な身体的振る舞いを自分の自意識は信じていないという乖離が生じる。これと対照的な在り方は、従来は、いわゆる「バカ」とされてきた。「バカ」とは、自分の振る舞いに明文的、自覚的な戦略性を思考のレベルでは考えず、それをもっぱら条件反射に任せているタイプの人格である。対して、「リコウ」は、自分で自分を観察する知性を持つがゆえに、自分では自分の振る舞いを信じていないのが当然と、従前はされてきた。
にこが独特なのは、この従来的な二項対立のどちらにも当て嵌まらないという点だ。にこは極めて大量の戦略性を以て自分の振る舞いを律しており、当然フィードバックして自分を自分で観察もしているが、にもかかわらず(従来型の「リコウ」とは異なって)自分で建てたキャラクターの意味を体得的に信じ、それを振る舞いを通じて実践しているのである。この点で、「バカ」と同様に、頭のレベルと身体的振る舞いのレベルで生理的な指向性が乖離しておらず、一致しているのである。この結果、自分で自分を信じていないことから来る、従来型「リコウ」特有の嫌味さが無く、どちらかというと「バカ」の傾向がある残り8人と全く選ぶところなく、爽やかないい奴なのである。
にこの視点でものを考えてみるなら、むろん、そのメタレベルの戦略的思考能力を有しているがゆえに、残り8人について、何かと当人が気付かないような点にまで発見を行うことも多いだろう。しかし、にこのメタレベルというものは、オブジェクトレベルの外部にあるものではなく、オブジェクトレベルの意味や概念を整理するために生じた仮設作業台のようなもので、基本的にはオブジェクトレベルと地続きの基板上に立脚している。それゆえ、他人に関して何か気が付いたとしても、それは、一方的に(外部から)見破ると言った一方的な権力的な視点では有り得ず、ただ、他者について人よりよく気が付いているという量的な多寡に過ぎないことになり、その意味で「バカ」ともタメというか、対等なのである。(従来型)「リコウ」特有の、根拠が自意識構造にしか立脚していない、理不尽な権力性が無いのだ。
ラブライブ!に関しては、多く、いわゆる「萌え」消費的な観点から現象が捉えられがちで、当のファンですらその「好き」の意味を十全に言語的に分節化できず、「ラブライバー」を自称することでアイデンティティを示し、外部に対しては自己主張を、「ラブライバー」内部に対しては連帯を求めたがる傾向にあるように見える。それを一概に悪いと言わないが、その「ラブライバーを自称し、そのアイデンティティベースの生活を行う」ことの意味を自覚的に整理し、その上で、その整理した戦略性の上に乗って、効率的にファン生活を行えば、この作品の鑑賞からより多くの果実を引き出すことも出来るのではないだろうか。
まぁ、平たく言ってしまうと、にこの「自意識がいっぱいあるめんどくさい奴なのにいい奴」という人格類型や、もっというと人生観・生き方のようなものに共鳴し、そこから多くの教訓や学びを引き出すことも出来るのではないかと言いたいのである。
今回の考察では、もっぱら成立したキャラクターの「人格」に着目する立場から論じ、作品の成立過程における各スタッフの寄与や功績の分析のようなものは行っていない。これは一つには私がそうしたスタッフワークの各論について通じていないという資質的な限界があるが、もう一つには、視聴者の立場から完成した作品を論じる際には一つの在り方として成立した作品を前提にそこから見えてくるものを論じるのも「アリ」だという主張でもある。
作品論という時にスタッフワークを中心に着目し、各スタッフの寄与について分析したがる(オタクとは異なる)古いタイプの「アニメファン」には物足りない考察だったかもしれない点はご容赦いただきたい。
2015年5月15日金曜日
「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」 コグレマサト・するぷ インプレスジャパン 2012年・2013年
今回取り上げるのは、「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」および「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」という本である。
なぜ今ブログ運営の参考本を読むのかというと、このブログ「真予定調和共和国」とは別に、速報性・共時性のある日記ブログ「予定調和共和国」を立ち上げたからである。
そこで、運営の参考にしたいと思い適当な本を読んでみたいと思い、以前から「積ん読」になって手許にあったこれらの本を読んでみることにしたのである。
その感想はこのブログ「真予定調和共和国」にアップするとともに「予定調和共和国」にもアップするが、その切り分けや使い分けがどうなっているのかを明確化するために、「予定調和共和国」とは異なる「真予定調和共和国」のスタイルや存在意義について説明させていただきたい。
結論を言ってしまうと、この「真~」は、読書感想ブログという形式を取ってはいるが、根本的には、自分のベース・核となる思考、大げさに言えば思想や、意見を形にして残しておきたいと思い書き残したものだ。そういう意味では、速報性のあるブログというより、固定した内容を持つ「本」を書いたという感覚に近い。
その意味で、本来は内容的には、あまりブログという形式にふさわしいコンテンツではない。本来、固定ホームページで展開するのが相応しいような内容なのだが、しかし、固定ホームページとするにも分量がこれだけでは寂しく、またページの体裁を整えるのも億劫だったので、ブログという形式に依ったものだ。
一方で、新しく開設したブログ「予定調和共和国」は、速報性や((読書感想なら)本を読んだ時点からの)共時性を重視した、「ブログ」と言って一般にイメージされるような切り口で書いてゆきたいと思っている。
この「真予定調和共和国」は、そういう、ストックされたコンテンツという性格を持つものなので、折に触れフローのブログである「予定調和共和国」からこの「真予定調和共和国」の各ページへとリンクを貼って紹介してゆくような使い方をしていきたいと考えている。
ただ、それのみだと「真~」独自の発展性もなく更新の目途も立たないので、今後は「真~」にも実用的な書籍のテンポラリな感想なども書いてゆきたい。だが、それも主に固定した「論」という切り口から書いてゆくつもりだ。
さて、そこで本の内容である。先日も「予定調和共和国」で述べた事だが、「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」は、各種ツールを使った効率的なブログ執筆術やアフィリエイト、広告の使いこなしなどが中盤以降の主な内容となっている。
思うに、中級者以上の段階に差し掛かれば自ずと手が効率化ツールを求めるものだと思うので、その時に、ブログの効率的な運営を求めて、またこの本を読み返してみるのは良さそうではある。だが、今はまだ私は、手がブラウザの編集画面を物足りないと感じる段階に達していない。
また、アフィリエイトや広告が効果的に成立するほどのアクセス数も当面はない。
それゆえ、この本はどちらかというとブログ上級者向けだと思う。少なくともブログ入門者の私には当面あまり役には立たなかった。
一方、「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」の方は様子が異なる。冒頭から、ネタ探しの方法、書き方における基本や心構え、記事ごとの切り分け方やカテゴリの使い方、記事相互間のリンクの貼り方、埋め込むべきタグの紹介など、初級者にとっても目の前にある、ブログの具体的な記事それ自体に即した内容である。
実際、私はこの本を読んで、早速、「予定調和共和国」にポストした記事に大量の<strong>タグを埋め込んでみた。
そういう意味で初級者向け、というか、上級者が読んでも参考になるが初級者が読んでも参考になる内容で、この本は役に立った。
また、やや上級者向けの内容では、アクセス解析の仕方や、そのブログ運営へのフィードバックの方法等にも触れられており、初級者でも興味が持てる内容と思う。
同じ著者の連作としては前者が初回作であるが、どちらかというと、後者「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」がパートワンの方が、ふさわしような気がした。
2013年11月3日日曜日
「オタクはすでに死んでいる」 岡田斗司夫 著 新潮新書 2008年
今回は、近年のオタク論の流れを俯瞰すればやはり無視できない著作である、岡田斗司夫の「オタクはすでに死んでいる」を取り上げたいと思います。
この著作の最大の問題点は、オタクというカテゴライズが、もともと外的に押し付けられた「ヘンな奴収容所」だったのだ、という明晰な着眼点がありながら、その説と、「萌え」の問題との間に存在する筈の密接な関係を完全に見落としている点にあります。
岡田斗司夫の「オタク収容所説」によれば、この社会的な「収容所」に入れられてしまう理由は、子供向けのアニメを見ているから、という事などのほかにも、単に子供っぽい、社会性がない、なども入れられる理由になるとの由でした。すなわち、「オタク=コミュニケーション的不具者」説という事になります。こうしたいわゆる古典的イメージのオタクを、ここではハゲデブ系と仮に呼びましょう。デブの不細工なハゲで、キャラクターの荒廃したタイプの人物像というわけです。
こうした人物が出来上がってしまう背後には、学校におけるイジメの問題が存在すると思われます。すでに述べて来た通り、権力固着世界では、クラスルーム内でのイジメは必然的な現象なので、こうしたキャラ類型の人物が一定割合出来上がってきてしまう学校教育というのは、驚くには値しません。こうした世界では、ちょっとした異端者は単に異端というだけの事としては受け入れられず、蔑視とバッシングの対象になってしまうからです。その排除の結果、ますます異端の度を増して見るからにオタクオタクした人物像になってしまうわけです。
そして、このハゲデブ化を回避して生身じみた身体を獲得する為にこそ必要な概念的ツールが「萌え」でした。既に森岡正博の「感じない男」で述べられている通りで、萌えオタクとは、少女という身体性を着たがっている者のことです。そして、多かれ少なかれ少女を着ることに成功した者が、昨今のフツーっぽいオタクという事になると思います。
ちなみに、かつて萌えという概念がなく、イジメの対象になっていたコミュニケーション不具者も、女性をオヤジ目線で対象化して見るという常識の中にいた時代には、一部の頭のまわるオタクは、ハゲデブ系のキャラ荒廃をさらにパッケージング化して、私の用語法で言うところの「ロボット系」という、人工偽オジサンをアバターとして着込んでいたという主張は、すでに何度か述べた通りです。
むろんこれは実は、大人男社会という、空気やノリといった阿吽の呼吸で交流する女子供の世界とは違う、ロゴスで理屈のコミュニケーションをする世界では、動物的なアバターが重視されて来なかった為に、しばしば大人男社会での成功者が、外見的には滅茶苦茶な荒廃したキャラの持ち主であったりしたことのことの戯画的なカリカチュアライズです。
この際、問題になるのは、私の言う、先行世代の価値観の底部にヘバリ付く生き方をする、いわゆる「コバンザメ」です。コバンザメは、その成育歴の上ではイジメ教室というような動物的振る舞いが致命的に重要になるステージで栽培されてきた結果生じた人物類型産物ですが、先行するオヤジ世代のロゴスの社会秩序に偽適応することでその社会生活を営んでいます。その結果、下の世代には、若者は反抗して当然などと余裕ぶって正論を吐きながら、自分が大人になる段階では単に先行世代に迎合しただけで反抗した実績がない。そういう意味では、彼らは嫌にませた子供に過ぎず、その余裕ぶった態度は大人ゴッコに過ぎないわけです。
マンガ「逆境ナイン」に出てくる不屈闘志の親父のように、「さすがだ!」と後進を認めつつも、「お前がやったぐらいのこと、当然ワシもやっておるのだ! 増長するほどのことではない!」と胸を張って断言できるようでなければ、到底マトモな大人とは言い難いと思います。
ところで、オタク的作品の内容そのものによって、そういうコバンザメを含めた大人男社会の論理的な物語は女子供の世界にも還流してきていますから、実は価値観的には両者は認識は共有化されています。すなわち、近年の女子供には、動物的な身体性とロゴスの理屈を両方具備した新種が出現してきているという事です。
ところが大人男社会は相変わらず女子供、つまり動物的な身体を持った人種はロゴスの理屈を喋らないという前提で、その論理的無知を教育するという態度から動かないわけです(=上から目線)。その結果、何も無い筈のところに差別の壁だけが設置されて、その両側で本来は同じ価値観を持った者同士で交戦する結果となります。これが、現在問題となっている格差社会という物のある断面からの把握と言えると思います。
こういう不毛が支配する世界では、勤勉といっても、長期の計画を立てて何か取り組みに励んでも、成果を回収できる見込みは低くなります。社会の中心に意味不明のいさかいだけが居座っていて、全体が秩序を成していないために、その紛争の行方が見えず、予測不可能性が高いからです。岡田は、冒頭で「日本人は消費や勤勉の向こうにある、誰も知らない次のステージに入ってしまった」と言っていますが、それはそういう予測不確実性の結果生じた事態でしょう。
こうした社会では、綿密に計画を立てて勤勉に励んでも、成果を回収できるとは限りませんから、イキオイ「損するのは嫌」という話になる。ここで「一方的な損を引き受ける覚悟」をした者を「大人」と言うと岡田斗司夫は言っていますが、これはちょっと違うでしょう。それは、大人というよりは、ただのお人好しです。こうした社会での最適化された大人の行動とは、木も見て森も見る態度であると私には思えます。つまり、短期スパンで個人的な成果も回収しつつ、中長期的展望も持ち合わせた人物が理想的な大人なのではないでしょうか。
え、私のこと? お前自身はどうなんだ、ですか? 私自身のこれまでの行動は余りにお人好し方向にバイアスの掛かったものだったので、取り敢えず、今は、ちょっと暫くのんびりして、いろいろと個人的取り組みの結果を待ってみたいと思っています。こんな不確実な世の中ですから…。
この著作の最大の問題点は、オタクというカテゴライズが、もともと外的に押し付けられた「ヘンな奴収容所」だったのだ、という明晰な着眼点がありながら、その説と、「萌え」の問題との間に存在する筈の密接な関係を完全に見落としている点にあります。
岡田斗司夫の「オタク収容所説」によれば、この社会的な「収容所」に入れられてしまう理由は、子供向けのアニメを見ているから、という事などのほかにも、単に子供っぽい、社会性がない、なども入れられる理由になるとの由でした。すなわち、「オタク=コミュニケーション的不具者」説という事になります。こうしたいわゆる古典的イメージのオタクを、ここではハゲデブ系と仮に呼びましょう。デブの不細工なハゲで、キャラクターの荒廃したタイプの人物像というわけです。
こうした人物が出来上がってしまう背後には、学校におけるイジメの問題が存在すると思われます。すでに述べて来た通り、権力固着世界では、クラスルーム内でのイジメは必然的な現象なので、こうしたキャラ類型の人物が一定割合出来上がってきてしまう学校教育というのは、驚くには値しません。こうした世界では、ちょっとした異端者は単に異端というだけの事としては受け入れられず、蔑視とバッシングの対象になってしまうからです。その排除の結果、ますます異端の度を増して見るからにオタクオタクした人物像になってしまうわけです。
そして、このハゲデブ化を回避して生身じみた身体を獲得する為にこそ必要な概念的ツールが「萌え」でした。既に森岡正博の「感じない男」で述べられている通りで、萌えオタクとは、少女という身体性を着たがっている者のことです。そして、多かれ少なかれ少女を着ることに成功した者が、昨今のフツーっぽいオタクという事になると思います。
ちなみに、かつて萌えという概念がなく、イジメの対象になっていたコミュニケーション不具者も、女性をオヤジ目線で対象化して見るという常識の中にいた時代には、一部の頭のまわるオタクは、ハゲデブ系のキャラ荒廃をさらにパッケージング化して、私の用語法で言うところの「ロボット系」という、人工偽オジサンをアバターとして着込んでいたという主張は、すでに何度か述べた通りです。
むろんこれは実は、大人男社会という、空気やノリといった阿吽の呼吸で交流する女子供の世界とは違う、ロゴスで理屈のコミュニケーションをする世界では、動物的なアバターが重視されて来なかった為に、しばしば大人男社会での成功者が、外見的には滅茶苦茶な荒廃したキャラの持ち主であったりしたことのことの戯画的なカリカチュアライズです。
この際、問題になるのは、私の言う、先行世代の価値観の底部にヘバリ付く生き方をする、いわゆる「コバンザメ」です。コバンザメは、その成育歴の上ではイジメ教室というような動物的振る舞いが致命的に重要になるステージで栽培されてきた結果生じた人物類型産物ですが、先行するオヤジ世代のロゴスの社会秩序に偽適応することでその社会生活を営んでいます。その結果、下の世代には、若者は反抗して当然などと余裕ぶって正論を吐きながら、自分が大人になる段階では単に先行世代に迎合しただけで反抗した実績がない。そういう意味では、彼らは嫌にませた子供に過ぎず、その余裕ぶった態度は大人ゴッコに過ぎないわけです。
マンガ「逆境ナイン」に出てくる不屈闘志の親父のように、「さすがだ!」と後進を認めつつも、「お前がやったぐらいのこと、当然ワシもやっておるのだ! 増長するほどのことではない!」と胸を張って断言できるようでなければ、到底マトモな大人とは言い難いと思います。
そう考えると、実は「実年齢より上に見られたがる」という、いわば「大人ぶる」風潮のほうが、こうした自分の成育歴の延長ではないロゴスベースの大人社会という物への、過剰適応願望なのではないでしょうか。
ところで、オタク的作品の内容そのものによって、そういうコバンザメを含めた大人男社会の論理的な物語は女子供の世界にも還流してきていますから、実は価値観的には両者は認識は共有化されています。すなわち、近年の女子供には、動物的な身体性とロゴスの理屈を両方具備した新種が出現してきているという事です。
ところが大人男社会は相変わらず女子供、つまり動物的な身体を持った人種はロゴスの理屈を喋らないという前提で、その論理的無知を教育するという態度から動かないわけです(=上から目線)。その結果、何も無い筈のところに差別の壁だけが設置されて、その両側で本来は同じ価値観を持った者同士で交戦する結果となります。これが、現在問題となっている格差社会という物のある断面からの把握と言えると思います。
こういう不毛が支配する世界では、勤勉といっても、長期の計画を立てて何か取り組みに励んでも、成果を回収できる見込みは低くなります。社会の中心に意味不明のいさかいだけが居座っていて、全体が秩序を成していないために、その紛争の行方が見えず、予測不可能性が高いからです。岡田は、冒頭で「日本人は消費や勤勉の向こうにある、誰も知らない次のステージに入ってしまった」と言っていますが、それはそういう予測不確実性の結果生じた事態でしょう。
こうした社会では、綿密に計画を立てて勤勉に励んでも、成果を回収できるとは限りませんから、イキオイ「損するのは嫌」という話になる。ここで「一方的な損を引き受ける覚悟」をした者を「大人」と言うと岡田斗司夫は言っていますが、これはちょっと違うでしょう。それは、大人というよりは、ただのお人好しです。こうした社会での最適化された大人の行動とは、木も見て森も見る態度であると私には思えます。つまり、短期スパンで個人的な成果も回収しつつ、中長期的展望も持ち合わせた人物が理想的な大人なのではないでしょうか。
え、私のこと? お前自身はどうなんだ、ですか? 私自身のこれまでの行動は余りにお人好し方向にバイアスの掛かったものだったので、取り敢えず、今は、ちょっと暫くのんびりして、いろいろと個人的取り組みの結果を待ってみたいと思っています。こんな不確実な世の中ですから…。
2013年10月11日金曜日
「女犯坊」 ふくしま政美 著 復刻版は太田出版 1997~1998年
「女犯坊」について語る、評する、コメントするという時に、一番目につく、というか鼻につく語り口とは何でしょうか? それは、遠巻きに見守る態度・腫物扱い、というスタンスだと考えます。言い方を変えれば、この書物で扱われている問題を他人事扱いして、自分の身の上に引き移しては考えない、という読書態度です。なぜそんなよそよそしい態度でこの書物に接しなくてはならないのか? それは、狂っていると思われたくないからでしょう。確かに、このマンガはある種の狂気を孕んでいることは間違いなく、その空気に即自的に共感的な読後感想を表明すれば、その読者自身に狂人のレッテルが貼られかねない危険な書物であることは間違いありません。
私が女犯坊を初めて知った理由は、コミケで「少年チンプ」というサークルがネタとして取り上げていたからでした。その当時刊行された分厚い復刻版には、巻末解説にこのサークルのメンバーのコメントも収録されており、あの時期(ちょうど前世紀末の頃です)、このマンガに注目していたのが一部のサイコ好きのプロの論者だけではない事を今に伝える貴重なコメントです。
とはいえ、彼らの女犯坊に対するスタンスも、基本的にはトンデモ漫画という扱いの域を出るものではなく、ある意味では世の一般のこのマンガに対しての扱いの例外とは言えません。
なぜ、そういう遠隔腫物扱いのようなスタンスを超えて本書の思想的な内実に踏み込むコメントが乏しいのかという理由は、すでに述べたとおり、狂気の同類扱いされたくないからでしょう。しかし、狂気というのも、実は普遍的なものです。人は誰も狂気を内に持っているもの。というより、思想とは即自的に本来一種の狂気であるよりほかないのではないでしょうか。
それをあたかも狂気でないかのように体裁よく見せるものが技術です。十分なウェルメイドな技術水準は、狂気に分節化された構造を与え、誰にも親しみやすい、読むに堪える書物に変えます。女犯坊の、(自称)常識人から腫物扱いを呼んでしまうという大きな欠点は、この、技術水準が余りにも不十分なのに、あまりにも大きく熱い思想を語っている点にあるといえるでしょう。
そこで、ここでは、この欠点に敢えて目を瞑り、女犯坊の思想的内実を検討してみましょう。と言っても、実は、思想の熱量は大きいものの、語られている構造は単純です。すなわち、この世を無間地獄と見做すというのが一点、そこに、ある種の暴力的な世直しの可能性を見るというのがもう一点。
このレベルに踏み込んで見た時に見えてくることが、この著者ふくしま政美は、「終わりのない日常」を終わりのないものとして生きることに耐えられないタイプの人物だろう、という事です。これを、私は「過ぎ去る者」と仮にここでは呼んでみますが、要は、歴史に、救済とか、あるいは最低限、進歩の可能性を読み込んでいるからこそ、世直しとか、悪といった諸概念をあまりに稚拙なその描画で描いてしまうのでしょう。
私自身は、この作品の内実のレベルに踏み込んで、女犯坊の思想的側面にコミットすることは厭いませんが、それに共感するかというと、答えはノーです。なぜなら、私は、「終わりのない日常」を終わらないものとして定常的動的平衡とみなして生きることに賛意を示す者だからです。つまり、原理的な意味での「世直し」という物を信じていないし、この世が無間地獄に限りなく近いとは思うものの、それそのものだとも思っていません。つまり、「ここは天国ではない、かといって地獄でもない」。要するに、私は、世界に「棲み付く者」だという、そういう事です。
ただし、女犯坊的な、救済志向の考え方が出てきてしまう思想的背景についてはよく理解できます。すなわち、最上層における権力の固定した世界では、最下層もまた固定され、虐げられた者は同一人物が永久に虐げられっぱなし、という構造を強要されます。そういう理不尽に対する怒り・異議申し立てとして、「地獄を世直しする」というような考え方が生じてしまう。
しかし、これは、人の世が原理的に無間地獄だという誤解に立脚した思想でしょう。人の世が、その最下層で固定した地獄になってしまうのは、最上層における権力が定常的に更新されずに固着してしまった場合だけです。実は、戦後の日本は、学園紛争が敗北してからというもの(あるいはその紛争の最中からすでに)、永くこの権力の固着状態にあったために、こうした「この世は虐げられた者にとっては無間地獄」というありがちな誤解を、生得的な感覚としてこの著者は自分に刷り込んでしまったのではないか。
実際には、最下層の賤民の役回りは、多かれ少なかれ回り持ちで、完全に固定したものではありません。私もまた、そういう認識のもとで、上昇志向を持って生きる下層賤民の一人なのです。
私が女犯坊を初めて知った理由は、コミケで「少年チンプ」というサークルがネタとして取り上げていたからでした。その当時刊行された分厚い復刻版には、巻末解説にこのサークルのメンバーのコメントも収録されており、あの時期(ちょうど前世紀末の頃です)、このマンガに注目していたのが一部のサイコ好きのプロの論者だけではない事を今に伝える貴重なコメントです。
とはいえ、彼らの女犯坊に対するスタンスも、基本的にはトンデモ漫画という扱いの域を出るものではなく、ある意味では世の一般のこのマンガに対しての扱いの例外とは言えません。
なぜ、そういう遠隔腫物扱いのようなスタンスを超えて本書の思想的な内実に踏み込むコメントが乏しいのかという理由は、すでに述べたとおり、狂気の同類扱いされたくないからでしょう。しかし、狂気というのも、実は普遍的なものです。人は誰も狂気を内に持っているもの。というより、思想とは即自的に本来一種の狂気であるよりほかないのではないでしょうか。
それをあたかも狂気でないかのように体裁よく見せるものが技術です。十分なウェルメイドな技術水準は、狂気に分節化された構造を与え、誰にも親しみやすい、読むに堪える書物に変えます。女犯坊の、(自称)常識人から腫物扱いを呼んでしまうという大きな欠点は、この、技術水準が余りにも不十分なのに、あまりにも大きく熱い思想を語っている点にあるといえるでしょう。
そこで、ここでは、この欠点に敢えて目を瞑り、女犯坊の思想的内実を検討してみましょう。と言っても、実は、思想の熱量は大きいものの、語られている構造は単純です。すなわち、この世を無間地獄と見做すというのが一点、そこに、ある種の暴力的な世直しの可能性を見るというのがもう一点。
このレベルに踏み込んで見た時に見えてくることが、この著者ふくしま政美は、「終わりのない日常」を終わりのないものとして生きることに耐えられないタイプの人物だろう、という事です。これを、私は「過ぎ去る者」と仮にここでは呼んでみますが、要は、歴史に、救済とか、あるいは最低限、進歩の可能性を読み込んでいるからこそ、世直しとか、悪といった諸概念をあまりに稚拙なその描画で描いてしまうのでしょう。
私自身は、この作品の内実のレベルに踏み込んで、女犯坊の思想的側面にコミットすることは厭いませんが、それに共感するかというと、答えはノーです。なぜなら、私は、「終わりのない日常」を終わらないものとして定常的動的平衡とみなして生きることに賛意を示す者だからです。つまり、原理的な意味での「世直し」という物を信じていないし、この世が無間地獄に限りなく近いとは思うものの、それそのものだとも思っていません。つまり、「ここは天国ではない、かといって地獄でもない」。要するに、私は、世界に「棲み付く者」だという、そういう事です。
ただし、女犯坊的な、救済志向の考え方が出てきてしまう思想的背景についてはよく理解できます。すなわち、最上層における権力の固定した世界では、最下層もまた固定され、虐げられた者は同一人物が永久に虐げられっぱなし、という構造を強要されます。そういう理不尽に対する怒り・異議申し立てとして、「地獄を世直しする」というような考え方が生じてしまう。
しかし、これは、人の世が原理的に無間地獄だという誤解に立脚した思想でしょう。人の世が、その最下層で固定した地獄になってしまうのは、最上層における権力が定常的に更新されずに固着してしまった場合だけです。実は、戦後の日本は、学園紛争が敗北してからというもの(あるいはその紛争の最中からすでに)、永くこの権力の固着状態にあったために、こうした「この世は虐げられた者にとっては無間地獄」というありがちな誤解を、生得的な感覚としてこの著者は自分に刷り込んでしまったのではないか。
実際には、最下層の賤民の役回りは、多かれ少なかれ回り持ちで、完全に固定したものではありません。私もまた、そういう認識のもとで、上昇志向を持って生きる下層賤民の一人なのです。
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