2013年11月3日日曜日

「オタクはすでに死んでいる」 岡田斗司夫 著 新潮新書 2008年

 今回は、近年のオタク論の流れを俯瞰すればやはり無視できない著作である、岡田斗司夫の「オタクはすでに死んでいる」を取り上げたいと思います。

 この著作の最大の問題点は、オタクというカテゴライズが、もともと外的に押し付けられた「ヘンな奴収容所」だったのだ、という明晰な着眼点がありながら、その説と、「萌え」の問題との間に存在する筈の密接な関係を完全に見落としている点にあります。
 岡田斗司夫の「オタク収容所説」によれば、この社会的な「収容所」に入れられてしまう理由は、子供向けのアニメを見ているから、という事などのほかにも、単に子供っぽい、社会性がない、なども入れられる理由になるとの由でした。すなわち、「オタク=コミュニケーション的不具者」説という事になります。こうしたいわゆる古典的イメージのオタクを、ここではハゲデブ系と仮に呼びましょう。デブの不細工なハゲで、キャラクターの荒廃したタイプの人物像というわけです。

 こうした人物が出来上がってしまう背後には、学校におけるイジメの問題が存在すると思われます。すでに述べて来た通り、権力固着世界では、クラスルーム内でのイジメは必然的な現象なので、こうしたキャラ類型の人物が一定割合出来上がってきてしまう学校教育というのは、驚くには値しません。こうした世界では、ちょっとした異端者は単に異端というだけの事としては受け入れられず、蔑視とバッシングの対象になってしまうからです。その排除の結果、ますます異端の度を増して見るからにオタクオタクした人物像になってしまうわけです。
 そして、このハゲデブ化を回避して生身じみた身体を獲得する為にこそ必要な概念的ツールが「萌え」でした。既に森岡正博の「感じない男」で述べられている通りで、萌えオタクとは、少女という身体性を着たがっている者のことです。そして、多かれ少なかれ少女を着ることに成功した者が、昨今のフツーっぽいオタクという事になると思います。

 ちなみに、かつて萌えという概念がなく、イジメの対象になっていたコミュニケーション不具者も、女性をオヤジ目線で対象化して見るという常識の中にいた時代には、一部の頭のまわるオタクは、ハゲデブ系のキャラ荒廃をさらにパッケージング化して、私の用語法で言うところの「ロボット系」という、人工偽オジサンをアバターとして着込んでいたという主張は、すでに何度か述べた通りです。

 むろんこれは実は、大人男社会という、空気やノリといった阿吽の呼吸で交流する女子供の世界とは違う、ロゴスで理屈のコミュニケーションをする世界では、動物的なアバターが重視されて来なかった為に、しばしば大人男社会での成功者が、外見的には滅茶苦茶な荒廃したキャラの持ち主であったりしたことのことの戯画的なカリカチュアライズです。

 この際、問題になるのは、私の言う、先行世代の価値観の底部にヘバリ付く生き方をする、いわゆる「コバンザメ」です。コバンザメは、その成育歴の上ではイジメ教室というような動物的振る舞いが致命的に重要になるステージで栽培されてきた結果生じた人物類型産物ですが、先行するオヤジ世代のロゴスの社会秩序に偽適応することでその社会生活を営んでいます。その結果、下の世代には、若者は反抗して当然などと余裕ぶって正論を吐きながら、自分が大人になる段階では単に先行世代に迎合しただけで反抗した実績がない。そういう意味では、彼らは嫌にませた子供に過ぎず、その余裕ぶった態度は大人ゴッコに過ぎないわけです。
 マンガ「逆境ナイン」に出てくる不屈闘志の親父のように、「さすがだ!」と後進を認めつつも、「お前がやったぐらいのこと、当然ワシもやっておるのだ! 増長するほどのことではない!」と胸を張って断言できるようでなければ、到底マトモな大人とは言い難いと思います。
 そう考えると、実は「実年齢より上に見られたがる」という、いわば「大人ぶる」風潮のほうが、こうした自分の成育歴の延長ではないロゴスベースの大人社会という物への、過剰適応願望なのではないでしょうか。


 ところで、オタク的作品の内容そのものによって、そういうコバンザメを含めた大人男社会の論理的な物語は女子供の世界にも還流してきていますから、実は価値観的には両者は認識は共有化されています。すなわち、近年の女子供には、動物的な身体性とロゴスの理屈を両方具備した新種が出現してきているという事です。

 ところが大人男社会は相変わらず女子供、つまり動物的な身体を持った人種はロゴスの理屈を喋らないという前提で、その論理的無知を教育するという態度から動かないわけです(=上から目線)。その結果、何も無い筈のところに差別の壁だけが設置されて、その両側で本来は同じ価値観を持った者同士で交戦する結果となります。これが、現在問題となっている格差社会という物のある断面からの把握と言えると思います。

 こういう不毛が支配する世界では、勤勉といっても、長期の計画を立てて何か取り組みに励んでも、成果を回収できる見込みは低くなります。社会の中心に意味不明のいさかいだけが居座っていて、全体が秩序を成していないために、その紛争の行方が見えず、予測不可能性が高いからです。岡田は、冒頭で「日本人は消費や勤勉の向こうにある、誰も知らない次のステージに入ってしまった」と言っていますが、それはそういう予測不確実性の結果生じた事態でしょう。

 こうした社会では、綿密に計画を立てて勤勉に励んでも、成果を回収できるとは限りませんから、イキオイ「損するのは嫌」という話になる。ここで「一方的な損を引き受ける覚悟」をした者を「大人」と言うと岡田斗司夫は言っていますが、これはちょっと違うでしょう。それは、大人というよりは、ただのお人好しです。こうした社会での最適化された大人の行動とは、木も見て森も見る態度であると私には思えます。つまり、短期スパンで個人的な成果も回収しつつ、中長期的展望も持ち合わせた人物が理想的な大人なのではないでしょうか。

 え、私のこと? お前自身はどうなんだ、ですか? 私自身のこれまでの行動は余りにお人好し方向にバイアスの掛かったものだったので、取り敢えず、今は、ちょっと暫くのんびりして、いろいろと個人的取り組みの結果を待ってみたいと思っています。こんな不確実な世の中ですから…。

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