2018年6月6日水曜日

「スカート」 榎本ナリコ 著 小学館 2002年

●本稿は宇図久磨理 氏より掲載を委託されたのでこちらのブログに投稿します…。:鹿羽伊久

前から言及が必要だとは思っていた、榎本ナリコ先生の「スカート」ってマンガがありますね…。無論、タイトルからしても、ある意味、ある種の事態におけるキーアイテム的な書物であることも間違いは無いワケですが…。

勿論、この書物の中に述べられ描かれているストーリーを通じて、ある種の男女概念に関する固定観念が固定しているが故の諸問題を前にして、男女数人のいろいろな人たちが、様々な問題意識や葛藤を以って右往左往しまた逡巡する、といった有り様が描かれているというのはよく認識できることですし、本書の登場人物のように、その「ハードル」とヤラの前で、かなり難儀な逡巡・躊躇のような事態に入り込んで、そしてそこで、そういう同じような当事者が何人も集まっても、結局はぐるぐる回り合うような結果にもなって行ったりして、なかなか真っ直ぐにハードルとやらを超える方向性へ向かって行かない場合もあったりする、という話もよく認識できます。まぁ、描かれた時期にだいぶ相違はあるモノの、後年の、アニメ化もされた「クズの本懐」にややテイストが似ているトコロもある作品世界とも見えます。尤も、この二作品には同じ種類の逡巡や葛藤が描かれているとはいっても、後者の方がかなり(少なくともアニメ版のラストでは)問題を容易に超克してしまった、といか、まぁ、まともに問題に突っ込んでいって向こうへ抜け出して(アニメ版の)ラストシーンを迎えたような印象はあって、一方の本書「スカート」は巻末のエンディングを迎えても、主要人物たちの自己認識があまり変わったようにも見えないこともあって、どうも煮え切らない読後感は残ります。

ただ、私にとっての問題は、もう一つ別の処にもある。これは要するに、この「スカート」で描かれた作中人物の棲む世界と云うのは、基本的に、いわゆる現実、とか社会生活、と呼ばれているような水準に(どうにかこうにかであれ)キャッチアップ出来て暮らしている人たちの物語であって、そういう水準で生活して行った場合に出会う、その水準なりの固有の、例えば規範との衝突などの問題意識から話が展開する作品世界である、という事、それが私には大きく目に映る。この意味では、完全にある時期以降そういう現実、とか、実社会、の水準から脱落した埒外の者として暮らした時期の長い私から見ると、やはり別の世界、と云うか、少なくとも異なる界隈で生活する人たちの物語であって、道具立てがソモソモ根本的に異なる世界で生起する顛末が描かれている以上は、やはりある種のファンタジーとして読めてしまう。というか、私が今持つ生のリアリティーを基準にこれを読むなら、ファンタジーとして解釈するしか読解の方法が無いワケです。

無論、これをファンタジー、として読んでしまう私のような人々の方が、むしろ(実)世界から見ると(負の/下方の)ファンタジーのような、一種、社会の圏外に生息しているからこそ、その位置からは、この書の内容の作品世界について、イワバ、上方の極楽内に棲む仙人の男女にもやはり土人同様の悩みらしきモノは有るのかなぁ…?、的な読み方になってしまうワケで、当の上方の極楽、というその場所から、土人たちの世界や、或いは多分今私がいる、土人からも生き埋めの生贄になりかねない更に井戸の底の方を下方に睥睨すれば、相対的には、多分逆の感想が出てくる。

もっとも、土人や、更に土人が呪術の為に生き埋めにせんとしているようなこの私などのような者がリアリティだと思っている世界には、実は、そもそも物語を描く上でのその世界内の固有の利用可能な道具立て自体が最初から殆ど存在しないという固有の問題もある。これも当然の話で、典型的なある種の土人の生息する彼/彼女の部屋(或いは独房)である、まぁ、ある種の病院の居室といった場所には、せいぜい、その住空間には壁とカーテンとベッドくらいしかなくて、何やら現実界の住人の住居にありがちな洒落た内装や、好みであつらえて、或いは外へ出て食べられる上等な食事も無く、あとはまぁ、娯楽室に備え付けの、冊数的には乏しい書物や雑誌程度が、そこから垣間見ることの可能な外部世界についての情報の総体であり、その程度がそういう者の持ち得る視野の広さの最大値であって関の山なのだ、というトコロでしょう。
或いは近よく居るという、そろそろいい歳に差し掛かりつつあるという者も多いらしい引き籠りとか無職ニート的な人たちの現実的な居住世界とは? まぁ、病室が自分の自室に取り替わる以上はその部屋内部の配置や物品選択、デザインなどの基本的な自由は部屋の住人自体が握れる場合もあるわけですが(とはいえ、実際には同居する親などの家族にこの権限も牛耳されている場合も多く有りそうではありますが)、どっちにせよ、その部屋に棲む内部の住人にとっては、部屋の内部状況程度が視認できる世界の全部であって、部屋の外部から齎される外界の情報が極めて乏しく限られている、という意味では共通点がある。他にもこの種の、下方の埒外圏域に棲む土人、とでも言えそうなタイプの生を送る現代のこの国の一般的に見られる生活世界の中の住人は幾つかのタイプはあるのかも知れませんが、大体、その生活世界が、彼/彼女自身が一人だけで棲む自室程度に限定されていて極度に狭いとか、その部屋の外からの情報源が極めて限られ、住人は外界の事情に極度に疎い、ナドの共通項はありそうです。

それゆえ、こうした概念的な独居房のような場所に、成育歴上のある重要な時期などに於いて(自分が望んだかどうかはともかく)留め置かれて暮らしたような経緯を出自として持つ成人などの人々は、しばしば長じても、(年齢的に)成人したゆえに独房から解放されて放り出された(一般の大人と云われるような人々が棲む)世界の中では、その世界と云うモノの成り立ちの意味論とか、或いは概略的な見取り図・地形略図ナドについての情報が不全であることが多く、いろいろ世渡り上の困難や問題を抱える場合も多いのでは無いでしょうか?

或いはまた、こうしたタイプの出自の者が、マンガなどのフィクションの創作を志した場合、例えば、本稿の主題だったマンガ「スカート」のような、現実(の社会生活)世界での生活・営為に道具立てや世界観の典拠を求めたタイプの作品を創る事が困難である場合も多々あるために、時々、極端な空中のファンタジーのような作品世界を、世界自体のフルセットソノモノについて、何も無いところから完全に「発明」してしまう場合と云うのも、少なくはないと考えています。しばしば「オタク的」とされるテイストの作品にこの種の世界設定が頻出するというある種のバイアスは。多分、こういうタイプの作品を愛好する人たちの出自が、上述のような社会的ポジションの出自を持つ者たちと多分に層として重なりがち、という事情とも関係がありそうに思う。
また、近年では増加する傾向にあるようにも見える、オタク的とされる作品の主要部分を担う、学校・学園を舞台設定として持つ作品も、ある意味、その延長にあると捉えて良いように思います。要は、(現役の生徒・学生はもちろん)成人の社会人、と呼ばれる年齢層の人たちでさえ、その社会人、なる生活圏で前提として、その世界の(一般的的な「主流派」の)住人たちには共有されている規範や常識の一般的コードにキャッチアップ・追随出来ていないために、その年齢時点でも、多分、自己の内部に生のリアリティの根拠が過去の学校・学園の記憶しか存在しない。それゆえに、そういった作者たちはそういう作品を描き、また同様の出自の者たちがそこに読者として群がってしまう、という、事態は総じて、そういう事のように私には見えるのです。

まぁ、纏めてしまうと、この「スカート」と云う作品、総じて、私が認識し、今この場所で体感として持っている生の実感・生活感覚や、或いは世界に関する皮膚感覚的把握ナドとは、まったく縁遠い、異なる(概念的な)場所である、現実世界、という場所を舞台にした物語である、と、そう捉えられる、という把握になります。要は、読み物として興味深く、意味も分かるし、価値もあると認識はできるが、私にとっての実生活の上に、何かの有用な情報や価値観・意義ナドをもたらしてくれるタイプの書物ではないし、それゆえ、作者がその中に、想定する読者への何らかのメッセージ的な想いをも入れ込んで描き上げたのだとしても、そのメッセージの宛てられた対象者の中には、明らかに私は含まれていない。そのメッセージの宛先は、多分、この作者と同じ種類の人たち、つまり、現実の中にキャッチアップしつつ、その水準で日々浮き沈みしてリアルを何とか凌いで、あるいは凌げて、それで生きている、生きていける、そういう、作者のイワバ同輩たちに向けられているのだと思います。そういう人たちには、ある種の導きや考えの整理の基盤として有用な意味を為す書物たりえる力は持っていそうですが、私は、棲息世界の前提や道具立てが全く異なる空間を生きている以上、そこから自分の実際の生の中へ援用できる価値を引き出す術はなく、要するに、別世界の書物、或いは、別の宗派の経典の類としか認識は出来ない、と云うような事です…。

まぁ、多分、こういう、現実世界とか、そこでの生活にキャッチアップ出来てしまうタイプの人が作者なのですから、その当の作者自身が即ちキャッチアップ出来てる人、という人物像の人間なのだろうな、という事も、書物の向こう側に透けて見える気もします…。多分、ドッカのマンガ中に一種の戯画として登場した類型的な描写も、この作品などを具体例に取って見てしまうと、まぁ実は当たらずとはいえ遠からずなのではないか、ナドとも想像出来てしまいます…。例えば、その某マンガ作品中では、素晴らしいマンガを描く素晴らしい眼鏡美人の女性漫画家を目の当たりにして、主人公が「オマエは完璧超人か!?」ナドと癇癪を起していましたが、まぁ、その作中の主人公と云うのが上述の独居房的世界の出自の人物として措定されているのも描写からみて間違いなさそうに見える辺りから、この種の下方の土人的な者が、現実キャッチアップレベルの作品を目の当たりにしたときに、作品に対してどんな事を感じ、また言いがちなのか。或いは更にまた、その作者がキャッチアップレベルの生活空間構成上の文化的・文脈的資材の十分な豊富さでの持ち主であるような場合には、独居房的世界の出自者からは、その者がどう見えて、どういった感情論で把握されがちなのか? そう云った諸問題も少し垣間見えそうです…。

多分、このマンガ作品「スカート」の作者・榎本ナリコ氏も、多分にこの種の完璧超人といった種類の人種か(多分女性なので、それこそ上で戯画化されていたような完璧眼鏡美人の類?)、まぁ、それにある程度近いタイプの、謂わば上位種族、に位置するような人物なんだろうな…、とは、何となく想像できますね…。つまり、私とはちょっと出自的トライヴの異なる、まぁ、あまり共通項が無いだろうと想像できるタイプの人物だという事で、ですから、個人的に、作者に対する親近感とかシンパシーと云った感情や、感覚的な距離感(の近さ)と云った想いのようなモノは(その作品としての一種の読後感の豊饒さとは裏腹に)、全く湧き上がってはこなかった、と云うのが、読後の率直な思いと云ったところです。それも結局、作品が、私にとっての棲息世界とは遥かに縁遠い、どこか違う場所を舞台にした物語であり、また、作者、或いは作中人物たちの在住する(現実の社会的)世界という、その世界観と云うモノも、私の棲息世界とは遥かにかけ離れたファンタジックな仙境を描いたモノなのだな、と云う、その実感だけが、紙面から伝わって来るしかないのです…。

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