2015年7月26日日曜日

「ラブライブ!」 京極尚彦 監督 TOKYO MX 一期2013年、二期2014年

 アニメ版ラブライブ!が大盛況である。2015年7月15日現在では、劇場版は、けいおん!、やまどか☆マギカ、を越えるほどの興行収入に達してまだ伸びているらしい。ただ、私は劇場版は未見なので、ここでは二期に亘って放映されたアニメのテレビシリーズからわかる内容について触れてみたいと思う。(その後、2016年3月30日に劇場版をビデオ視聴したが、言いたいことは変わらなかったので、本稿の内容はそのままとする。) 

 ラブライブに登場するμ'sの9人の中でも、特に注目すべきはにこに―こと矢澤にこであろう。このキャラクターの特徴としては、極度に自分のキャラ建ての方法論や戦略性に関してうるさくて、極めて明文的、自覚的に自己のキャラ建てを行っているという点である。(あの「にっこにっこにー」である。)この自意識の饒舌さは、ある意味でいわゆる「ぶりっ子」にも相通づる。両者とも自分のキャラ建てに関して明確に戦略的な振る舞いをしており、極めて自覚的であるからである。しかし、にこは「ぶって」いる、すなわちフリをしているワケではない。ここが、極めてこのキャラクターの一種現代的な特徴と言える。

  この現代的特徴とは、平たく言うと、要するに「いい奴」なのである。アニメキャラクターであるがゆえにいささか図式的に単純化されているという事情を差し引いても、μ'sの残り8人は、少々自意識不足のきらいのある、単純というか、単細胞な所のあるキャラクターだ。対照的に、にこは極端に大量の(過剰の、ではない)自意識と自己戦略性を持った、ともすれば頭でっかちとも取られかねないようなキャラクターである。しかし、頭でっかち特有の嫌味さがない。それは、にこは戦略的振る舞いをしていると言っても、べつに「フリをしている」ワケではないからである。

  フリをしているとはどういう事であろうか。それは、自己の戦略性を自覚してしまっている自意識が、当の戦略性の外部にくくり出されて、いわば自分を「外」(実はそれもまた内部なのだが)から観察している状態になっているということである。言い方を変えれば、自分の自意識が、当該の自分の戦略性を体得的には信じていないということだ。
 その結果、自分の戦略的な身体的振る舞いを自分の自意識は信じていないという乖離が生じる。これと対照的な在り方は、従来は、いわゆる「バカ」とされてきた。「バカ」とは、自分の振る舞いに明文的、自覚的な戦略性を思考のレベルでは考えず、それをもっぱら条件反射に任せているタイプの人格である。対して、「リコウ」は、自分で自分を観察する知性を持つがゆえに、自分では自分の振る舞いを信じていないのが当然と、従前はされてきた。 

 にこが独特なのは、この従来的な二項対立のどちらにも当て嵌まらないという点だ。にこは極めて大量の戦略性を以て自分の振る舞いを律しており、当然フィードバックして自分を自分で観察もしているが、にもかかわらず(従来型の「リコウ」とは異なって)自分で建てたキャラクターの意味を体得的に信じ、それを振る舞いを通じて実践しているのである。この点で、「バカ」と同様に、頭のレベルと身体的振る舞いのレベルで生理的な指向性が乖離しておらず、一致しているのである。この結果、自分で自分を信じていないことから来る、従来型「リコウ」特有の嫌味さが無く、どちらかというと「バカ」の傾向がある残り8人と全く選ぶところなく、爽やかないい奴なのである。 

 にこの視点でものを考えてみるなら、むろん、そのメタレベルの戦略的思考能力を有しているがゆえに、残り8人について、何かと当人が気付かないような点にまで発見を行うことも多いだろう。しかし、にこのメタレベルというものは、オブジェクトレベルの外部にあるものではなく、オブジェクトレベルの意味や概念を整理するために生じた仮設作業台のようなもので、基本的にはオブジェクトレベルと地続きの基板上に立脚している。それゆえ、他人に関して何か気が付いたとしても、それは、一方的に(外部から)見破ると言った一方的な権力的な視点では有り得ず、ただ、他者について人よりよく気が付いているという量的な多寡に過ぎないことになり、その意味で「バカ」ともタメというか、対等なのである。(従来型)「リコウ」特有の、根拠が自意識構造にしか立脚していない、理不尽な権力性が無いのだ。 

 ラブライブ!に関しては、多く、いわゆる「萌え」消費的な観点から現象が捉えられがちで、当のファンですらその「好き」の意味を十全に言語的に分節化できず、「ラブライバー」を自称することでアイデンティティを示し、外部に対しては自己主張を、「ラブライバー」内部に対しては連帯を求めたがる傾向にあるように見える。それを一概に悪いと言わないが、その「ラブライバーを自称し、そのアイデンティティベースの生活を行う」ことの意味を自覚的に整理し、その上で、その整理した戦略性の上に乗って、効率的にファン生活を行えば、この作品の鑑賞からより多くの果実を引き出すことも出来るのではないだろうか。
 まぁ、平たく言ってしまうと、にこの「自意識がいっぱいあるめんどくさい奴なのにいい奴」という人格類型や、もっというと人生観・生き方のようなものに共鳴し、そこから多くの教訓や学びを引き出すことも出来るのではないかと言いたいのである。 

 今回の考察では、もっぱら成立したキャラクターの「人格」に着目する立場から論じ、作品の成立過程における各スタッフの寄与や功績の分析のようなものは行っていない。これは一つには私がそうしたスタッフワークの各論について通じていないという資質的な限界があるが、もう一つには、視聴者の立場から完成した作品を論じる際には一つの在り方として成立した作品を前提にそこから見えてくるものを論じるのも「アリ」だという主張でもある。
 作品論という時にスタッフワークを中心に着目し、各スタッフの寄与について分析したがる(オタクとは異なる)古いタイプの「アニメファン」には物足りない考察だったかもしれない点はご容赦いただきたい。